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カンガーさんの体験

娘は、現在6歳、幼稚園の年長だ。

最近、療育センターをはじめ、さまざまな医療機関や訓練の場で、就学についての相 談が終了した。 結果は、すべての先生方ともに、「普通学級でやれるだろう」。

理由は、「知的能力が高く、運動能力も高く、集団適応上の問題行動が見られない」。

しかし、はじめから、そうだったわけではない。

もちろん持って生まれたものはあるだろうけれど、偶然や幸運な出会いがあり、その 流れに従って努力してきたことがひとつの実を結んだと私は思っている。

そして、「普通学級に入っても、障害から生じる、対人、社会的文脈の理解の困難、 コミュニケーションの障害は明確であり、教育上特別な配慮を要する状態であること を忘れずに」、と言われた事が、これからの課題であると思う。

ここまで来るのは、本当に長く、苦しい道のりだった。

そして本当の闘いはこれからだと思う。

就学を前に、娘の6年間を振り返ってみることにした。

私が娘の行動について疑問を持ったのは、いつだったのだろう。

 まず、赤ちゃんの時から、ほとんど寝なかったのでおかしいと思っていた。

ベットにおくと、大泣きするので、一日中抱いていないとならなかった。

抱いていて、やっと寝ても、ベットにおくとすぐに目をさまし、大泣きがはじまる。

主人が帰ってくる夜9時頃から夜中の2時頃までが、私が寝る時間だった。

主人はゲーム好きでいつも夜中の2時3時までゲームをしていたから、娘をひざに乗 せてゲームをしていた。

運良く、そのまま寝てくれる事もたまにはあったが、ほとんどは寝てくれなかった。

私は、2時頃から朝まで娘を抱いて、深夜番組を呆然と見ていた。

明け方4時頃、娘をベビーカーに乗せて、近所をうろうろ歩き回ったこともあった。

娘はいつ寝るんだろう、こんなので、睡眠不足にならないのかなあといつも疑問だっ た。

私も睡眠不足でまいっていた。

娘のどうしても寝ない状態は、年少で幼稚園に入園したその日から、信じられない事 に解消した。

それ以来、1日10時間以上、とても良く寝てくれる。

夏休みだって、かわらず良く寝てくれる。 いったい、あの寝ない日々は何だったのだろう?

 生後10ヶ月頃から娘は歩いた。

公園に行っても、他の子は砂場などでじっと遊んでいて、お母さん達は楽しそうに話 している。

でも娘は、遊具で遊ぶ事はほとんどなく、ひたすら公園の中を歩き回った。

近所の公園は広い公園で裏の方は山になっていて、そんなところもどんどん歩いて いっ た。

決まりきったコースを毎日毎日ひたすら歩いた。

何周も何周も。 私は他のお母さん達と話がしたくて、「行きたいなら1人で行きなさい」と突き放し たこともあったけれど、全然お構い無しに1人でいつものコースを行ってしまった。

心配なので、結局後を追うしかなかった。

これって多動ってこと?って少し心配だった。(今思うと、「多動」プラス同じ道を 歩くという「こだわり」だ。) 親の言う事を全く聞かず、あまりにもマイペースな娘に、不安は増すばかりだった。

とにかく、このままではわがままな子になってしまう、なんとか「親に従う訓練」を しようと決意した。

どこかに出かけるのが一番早道だと思った。

とにかく頻繁に出歩いた。

どんなに嫌がっても手をつないで(手首をつかんで)歩く。

手首が赤くなる程、にぎりしめて歩いた(そうしないとどこかへ走っていってしま う) 。
うちから最寄り駅まで歩くと(大人の足で20分くらい)、3つも公園の前を通る。

ルーは公園を見ると、中に入りたがって毎回大暴れ、大泣きになっていた。

道に転がって、絶対に歩かないので、こっちも負けそうになる。

人の視線は突き刺さるし、辛くて仕方なかった。

どんなに泣きわめいても、公園に入って遊ぶことはさせない。

ひきずって通り過ぎる。

信号待ちをする。

赤でも行きたがって泣きわめく。

娘は、止まることや戻ることが大嫌いで、必ずパニックを起こした。

羽交い締めにして青になるまで待たせる。

バス停でバスを待つ。

違う行き先のバスでも乗りたくて暴れる。

走っているバスにも乗ろうとして道路に飛び出しそうになったこともある。

羽交い締めにして、乗りたくても乗れないバスがあることを教える。

電車でも同じこと。

すべて「自分の思い通りにはならない。

親が決めたことに従うしかない。」というこ とを教えるために、私は多くの時間を費やした。 

私は言葉の訓練はまったくやらなかったが(残念ながら、やり方を知らなかった)、 子供のわがままを押さえ込み、大人の指示に従うことは早くから徹底的に教えた。

今思うと、大人の指示に従えることは、あらゆる療育を楽に有効に受けるための基本 となり、娘が行動療法にすんなりと入っていけたのも、このような訓練をしていたこ とが、良い結果を与えたと思っている。 

そして、親バカだった私は、娘が早くに歩き出し、毎日良く歩き、運動が好きだと 思っ たので(ただの多動だっただけなのに...苦笑)、娘をベビーの体操教室に1歳半の頃に入れた。

想像以上に、他の子ができる事が娘にはできなくて、ショックの日々だった。 

娘は、今何をするべきか、全く理解せず、思いついたまま、やりたい事だけをやって いた。

名前を呼ばれて返事をして、先生にカードを渡したり、もらったりの決まりごとも、 娘には全くできなかった。 

それよりなにより、名前を呼ばれるまで、座っていることが1人だけできなかったの だ。 

何かに取り付かれたように、ひたすら動き回っていた。 

私のことも、体操の先生のことも、周りの子供達のことも、娘の眼中には全くなかっ た。 

ただそこにある、トランポリンや、大きな積み木でつくったアスレチックや、滑り台 やマットなどしか目に入っていなかった。

そして、他の子供に比べて、我慢が出来ないことがなにより大変だった。 

トランポリンが大好きで、1人ずつ順番なのだが、どうしても並べずに前に行こうと するので、毎度汗だくで抱いていた。 

抱いていても、そりくりかえって、もう本当に大変だった。 

この頃、私と主人はこの状態を「ハトヤ状態」と呼んでいた。

「伊東に行くならハトヤ、電話はよいふろ」というハトヤホテルのCMを関東の方な ら知っていると思う。 

このCMで、小さな女の子が大きな生きている魚を抱えて、魚がびちびち暴れて、い まにも女の子の腕の中から落ちてしまいそうな場面が出てくる。 

私達の腕の中での娘の暴れ方が、その魚の暴れ方に似ていたので、そう呼んでいた。

あとは、皆でディズニー体操をやるのに、まったく動作模倣が出来なかった。 

他の子は音楽に合わせて、いろいろな動きができるのに、娘は参加しようとせず、1 人で走り回り、無理矢理手足をもってやらせようとすると、ハトヤ状態になる。

1時間が地獄のように長かった。 

教室までの道のりも片道大人の足で25分程度のところを1時間かけて歩いて通った (2歳まではベビーカー)。 

雨の日も、雪の日も、絶対に休まなかった。

何度教室をやめようと思ったかしれないけれど(娘のことをおかしいと平気で言う人 もいた)、もうどこか意地になっていて、何もできないから、やめて行ったと思われ るのが悔しくて、みんなより遅れていても、いつかできるようになって、それを先生 や皆に見せたいと思っていた。

悔しさをばねに、家でも動作模倣の訓練を一生懸命やっていた。 

みじめな思いをしながら、絶対やめずにがんばって通うことが出来たのは、娘は健常 だと強く信じていたからだと思う。 

毎週、通う事で、療育になっていたなあと、今はやめなかったことを良かったと思っ ている。

幼稚園入園まであと半年という頃まで通う事になるが(障害の可能性が色濃くなり、 ついに通い続ける意欲を失った)、その頃には、なんとか少しだけ動作模倣ができる ようになっていた。

  『体操教室に通った一年半で出来るようになったこと。』 少しだけ動作模倣ができるようになった、名前を呼ばれたら手をあげてカードをとり にいく、マット運動で前転ができる、シャボン玉が吹ける、平均台を渡る。

それか ら、 おむつがとれるのも競争みたいになっていたので、着替えの時にうちだけおむつだと 嫌だというプライドのために、がんばって人並みにおむつをとる事が出来た(おしっ このみ)。


  『どうしても出来なかったこと。』 先生と目を合わす事、言葉をしゃべること(単語は少し出ていた)、場面に合ったあ いさつを自発的にすること(言葉ではなくおじぎやバイバイなど)、順番を守れるこ と、ディズニー体操、指定された色の大きな積み木にさわる色鬼ごっこ(ルールを理 解できない)、大きさ(大小)などの理解。 

2歳の頃には、自分の大便をおむつから取り出して、壁に塗りたくるなど、知的障害 児特有の行動も見られた。

くるくるまわる、つま先歩き、クレーン、横目で物をみる、こだわり、パニックな ど、 自閉症の症状もはっきりとあった。 

おそらく3歳以前に知能テストを受けていたら、かなり数字は低く、間違いなく知的 障害と言われただろう。

保健所の検診についても書いておこう。 

娘は、保健所の1歳半検診で、指差しが出来ない事、言葉がまったく出ない事で居残 りになった。 

保健婦の「気になることは?」という質問に、否定してほしくて「多動ではないかと 思うんです」と言ってみた。 

その日はおとなしくしていたので、「こんなふうにおとなしく座っているのは多動で はない」と言ってくれると思っていたのに、母子手帳に「多動傾向?」と書かれてし まった。

 おまけにいろいろと嫌な事を言われた。

若い保健婦の心無い言葉に傷つき、不安と怒りで涙が出た。 

私は、この検診で、娘の障害をほんの少しだけ疑うことになるが、絶対大丈夫と自分 に言い聞かせていた。

2歳の時、保健婦から電話があった。 

それでも私は、訪問を断った。 

まだ、娘は大丈夫だと思っていた。

2歳半になっても、言葉が全く出ないし、公園仲間達に目が合わないと言われたりし て、私もさすがに不安になり、いろいろな本を読んだ。 

自閉症の項目に、あてはまらない点もあったが、あてはまる点もあり、他の障害を消 去法で消して行くと、自閉症しか考えられなかった。

私は主人や、自分の母に、娘が自閉症じゃないかと思うと言ったが、取り合ってもら えなかった。 

自閉症っていうのは、もっと違うでしょう、こんなに笑顔がかわいいのに、と言われ た。 

自閉症の子は笑わないと母は真面目に思っていたらしい。

私は母からひどく叱られるし、不安だし、もうどうしていいかわからなかった。 

ついに私は、自分から、保健所に電話をした。 

そして、親子相談をいうものを受けることになった。 

親子相談は、臨床心理士が担当した。

簡単なテストをしたり(出来は悪かった)、私の話をきいたりした。 

その頃、娘は「にゅーにゅー」(牛乳)など、7個くらいの単語を言うようになって いた。

私は不安をぶつけてみた。 「うちの子は自閉症でしょうか?」

心理士は「自閉症といっても、円の中心が重い自閉症だとして、円の外側が健常だと して、お嬢さんがどこにいるのかはわかりませんが、円の中のどこかにはいると思っ て下さい」といった。

私はその場で泣いた。 

そして、帰る時に、療育相談の予約をとった。 

うちに帰って主人に話して、療育相談には一緒に行ってほしいと言った。 

主人は「わかった」と言った。 

そして、保健所主催の言葉の遅い子の親子サークルに入って、活動する事になった。

毎週、このサークルに通う事になったが、皆で御遊技をするのが娘は嫌で、無理に手 足を持ってやらせようとすると、泣いて暴れて大騒ぎだった。 

担当の保健婦は、とにかく子供を押さえ付けることを私に要求したので、毎度大汗を かいて、娘を羽交い締めにして、時間は過ぎていった。

このサークルに通っても、娘は良くならないし、泣いて暴れてばかりだし、周りの子 も見本になるような子はいなくて、動物園状態だった。

私はどんどん追い込まれていくので、耐えきれず数カ月でやめてしまった。 

保健婦がとても威張っているくせに、だた押さえ付けることしか教えてくれないとこ ろが、気に入らなかったのもあった。

療育相談は、児童精神科の医師が担当した。 

娘は心理士がテストをしながら、相手をして、私達夫婦は根掘り葉堀り医師から質問 を受けた。

出身大学や専攻、就職した時の仕事、趣味や、子供の時のこと。 

どうして、娘のことではなくて、私達のことを聞くのか疑問だったけれど、自閉症の 親は高学歴が多いとか、どういう性格の人が多いとか、いろいろな統計があることを 後で知って、そういう事も知りたかったのかなあと思ったりもした。

帰りに医師は、はっきりと自閉症だとは言わなかった。 

「療育センターで専門の先生にしっかりと見てもらえば、答えは出るでしょう」と言 われた。

近所の一学年上の自閉症のお子さんは、療育相談の後すぐに医師のすすめる訓練会に 入会した。 

私は、医師にその訓練会に娘も行った方がいいのか質問した。 

「必要ありません」といわれたので、なんだかすごく嬉しかった。 

うちの子は大丈夫かもしれないと漠然と思って、少しほっとした。 この頃は、10数個くらいの単語(にゅーにゅー(牛乳)、ちっち(おしっこ)、ブ −ラン(ブランコ)とかいう程度)を言うようになっていた。

そして、3歳になるころ、療育センターからついにお呼びがかかった。

 療育センターの初診の日 、医師は、私達にオレンジジュースの話をした。 

「オレンジジュースがあるとして、とても濃いオレンジジュースが重い自閉症だと す る。 どんどんお水で薄めていって、たとえ見た目がお水の色になっても、飲んでオレン ジ の味がしなくなっても、そこにはオレンジジュースが確実に入っているのです。」 というような話だった。 

つまり、自閉症スペクトラムの話をされたわけだ。

その時、「お嬢さんがどのくらいの濃さのオレンジジュースか調べるために、3ヶ 月 間6人グループでいろいろなことをしてもらい、それを観察して、正式な診断名を つ けさせていただきます。」と言われた。 

これは事実上の告知だった。

自閉症スペクトラムのどこかにはいると宣言されたのだから。 それでも私は、きっと健常の子との境あたりにいるのだと思おうとしていた。 

言葉も出てきていたし、おままごとが大好きになっていたので、「想像力の欠如」 は ないと思っていた。

今では、「想像力の欠如」とは人の気持ちを読んだり、言葉の裏を読んだりの想像 力 がないことを意味していて、おままごとのような単純な問題だけではないとよくわ かっ ているが、その頃の私はそこまでの意味はわかっていなかった。

もしかしたら障害児ではないのに、誤解されているのかもしれない。 

その誤解を、ときたいと思っていた(そう思う事で、なんとか気持ちを立て直して い た)。

保健所の親子相談の時から、心理士の行うテストができないことが気になってい た。

 なんとかしたいと思い、その頃から、知育玩具などを買い集めるようになった。

保健所にあるものと似たようなパズルやカードを求めて、輸入知育玩具店を捜しま わっ たり、玩具屋さんや、本屋さんなどで、つかえそうなものは、すべて買い集め、毎 日 毎日繰り返しやらせていた。

 「できないから、障害だと思われるなら、できるようにしてやる!」という気持ち で がんばっていたように思う。

同じ年令(平成7年生まれ)、同じタイプ、同じ障害の程度の子を集めて、グルー プ がはじまった。 

週に一度、午前中だけあつまり、いろいろな遊びをしながら、詳しくチェックされた。

 親も宿題として、毎日の日記を書いて、提出した。 このグループのメンバーについて、詳しく書くことはさけるが、すべてカナ−タイ プ の自閉症で、IQはおそらく50〜80くらいだったのではないかと思う。 

そして、6人の現在は、IQが上がり普通学級を勧められている子、IQが下がり 養 護学校を勧められている子、あまり状態が変わらず特殊学級を勧められている子、 い ろいろだ。

 さて、正式な診断名はまだついていなかったが、オレンジジュースの告知を受けて か ら、療育というものをやらなくてはというあせりが出てきた。

 障害を認めてはいなかったが、このまま自己流に訓練しているのも不安だった。

でも、どこに、療育の場があるのか、私はまったく知らなかった。 

しかし、運が良い事に、療育センターの6人グループの仲間から、情報をもらうこ と ができた。 

グループがはじまって、すぐに私達はとても仲良くなった。 

はじめての仲間だ(いまでも良く集まるし、何かあればすぐ電話がかかってく る)。 

その中には、すでに療育に取り組んでいる人がいたので、すぐに紹介してもらっ た。

まず1つめは、うちから、バス電車を乗り継いでちょっと遠かったけれど、病院の 付 属の施設だった。 

簡単なテストを受けて、合格し(簡単な動作模倣が出来る子のグループだったの で)、 すぐに入れていただくことができた。 

週に一度、7人で手遊び歌や、体操、座って紙芝居や人形劇を見ることなど、いろ い ろなことをやった。

臨床心理士と保母が、子供の指導をしてくれた。

 幼稚園にはいるまで、ここにはお世話になった。 

ここでは特に、これといって、何かできるようになった訳ではないけれど、どこか で 療育しているという安心感を私に与えてくれた。 

幼稚園選びで悩んでいる時に、先生達は私の話を良く聞いて、相談に乗ってくれ た。

 2つめは非常に厳しいが、とても良くなると評判の地域の訓練会を紹介してもらっ た。

非常に厳しいので、体験してちょっと迷ったが(体罰があったので)、入会を決意 し て(主人は猛反対だったけれど)順番待ちをして、幼稚園入園と同時に入会して、 今 でもお世話になっている。 

この訓練会については、幼稚園入園後の話とからめて、後で書きたいと思う。 

ここまで、何度も私達は車を持つ事を考えた。 

一応夫婦共に免許は持っている。

何度も何度も話し合って来た。

私は、歩くことは、脳の活動を活発にするということを固く信じていた。 

言葉が遅れている子は、歩かせるのが一番と、どこかの本に書いてあったことが忘 れ られなかった。 

歩いて、公共の乗り物にのることは、社会のルールを知るために大切なことだと 思っ ていた。 

でも、療育に連れて歩くのも、もう限界だった。

うちは、駅から遠かったし、療育の場も駅から遠かった。 

車ではない人間は私達だけだった。 

療育センターでも施設でもそうだった。

そのうえ、私の気持ちの中で、「障害のある子を隠したい」という気持ちが芽生え て きてしまった。 

道路で泣きわめく子供を引きずって歩くのも、だんだん辛くなってきていた。 

子供の身体が大きくなるにつれて、人々の視線が冷たさを増しているように思え て、 耐えられなくなってきたのだ。 

でも一度、そうやって車を持ってしまったら、もう絶対手放せなくなる事は、周り の 人達を見ていれば良くわかった。

結局、私達は車を持つ事をやめた。

一人っ子だから、可能だったのだと思う。

もち ろ ん、交通網の発達した比較的都会に住んでいるからできたことだ。 

後になって、いろいろな先生方に、車を使わないで、毎日よく歩いたことが、娘の 発 達にとって、とても良かったのではないかと言われることになる。

この時の自分のたちの選択は正しかったと思う。 

そして、とある講演会の講師の先生が 「こういう子達は、残念だが将来免許をとれる可能性が低い。

小さいうちから、公 共 の乗り物の切符などの買い方やいろいろな仕組み、乗り物内でのマナーを仕込んで お かないと、大きくなってから教えるのは大変だ」と言っていた。

そういう意味でも、我が家は現在も車を持たず、公共の乗り物を使うことにしてい る。

娘は車が大好きで、「どうしてうちには車がないの?」とよく質問してくる。

 「○○ちゃんちも○○くんちも、みんな、くるまがあるんだよ」とひどく不満そう だ。 

近所で車のない家は、うちだけだ。 

どのうちにも、大きな車がある。

私は、「ルーが大きくなったら、車を買って、パパとママを乗せてね」と言う。 

ルーはうれしそうに、「うん!」と答え、なんとなく納得してくれる。 

娘の喜ぶ顔が見たくて、車の購入には揺れ続けるだろうが、もうしばらくは車のな い 生活を続けるつもりだ。

 後に、訓練会で教えてもらった「精神科医の子育て論」(新潮選書)という本をお 勧 めする。

これは、重度の自閉症児を持つお母さん(小児科医)の子育て方法を、精神科医が 書 いた本である。 

この中に、「外出を頻繁に」という項目があり、「自家用車では出かけない事。家 庭 の延長にしか過ぎないので」と書かれている。 

この本に出会った時、「ああ、私は間違っていなかった」と思い、とてもうれし かっ た。

苦労するだけだったが、ディズニーランドにも良く出かけた。 

大好きなダンボは、50分待ちなどがざらであったが、ハトヤ状態になりながら、 並 んで待つ事を徹底的に教える良い機会になった。 

本来楽しいはずの行楽や旅行も、心から楽しめるようになったのは、年中の後半に なっ てからだ。 

それまでは、療育のための外出でしかなかった。

旅行先で必ず何度かパニックを起こされて、親子そろって辛い思いをした。 

でも今では乗り物内のマナーや旅行につきものの予定の変更などに慣れ、どこへ連 れ ていっても普通の子のように振る舞う事が出来るし、親子そろって旅を楽しむ事が で きる。 

話を元にもどそう。 

療育センターでのグループが終わって、医師の再診があり、ついに正式な障害名を つ げられる時が来た。 

「典型的な自閉症です」 ショックで涙もでなかった。

「典型的」という言葉が「軽くはない」というか「重い」という印象を私に与え た。 

そのあとで、先生が「知的な遅れはありません。」と言ったことが微かな救いだっ た と思う。(グループが終わる最後の日に、知能テストを受け、結果は80だっ た)。 

私は、「娘は将来結婚できるでしょうか?」と聞いた(何故かその時その事が一番 気 になった。やはり動転していたのだと思う)。 

先生は、「残念ながら、日本ではそういう方は1人もいません。(先生が知らない だ けで、実際にはいらっしゃると、今私は知っています)。でも

大学まで行く人は増 え ています。

お嬢さんの場合は、そうなる可能性もありますよ。」と言った。 

「弱いところは一生弱いままなんですよ」と何度もしつこく言われた。   

どこにも、逃げ道はなかった。 

娘が障害児であることを否定する事は、もう出来なかった。 

健常だと言われるためだけに、私はがんばってきたのだから、抜け殻のようになっ て しまった。 

この日から、数日間は、何ごともなかったように過ごした。

身体がふわふわして、自分が自分ではないような感覚だった。 

不謹慎な話しだが、娘の手をひいて道を歩きながら、車の方からこちらへ突っ込ん で きてくれないかなあと思っていた。 

そしてついに、ある日の夕食時、私は気が狂ったように泣いた。 

どうすることもできない気持ちに支配されて、大泣きした。 

泣いて泣いて、涙が枯れるってこういう感じかなってくらい泣いた。 

私が泣いていても、娘は全く興味を示さず、あいかわらずマイペースなのが、憎ら し かったのを覚えている。

ひとしきり、泣いた後、主人が「大丈夫だよ、きっと何とかなる」と言った。 

何が大丈夫なんだろう? 娘は自閉症だというのに、一生治らない障害を持っていることがわかったというの に。

 私は死にたいと主人に言った。 

この子を殺して、自分も死にたいと告白した。 

その時、主人はこう言った。 「死ぬくらいなら、うちを出ていっていいよ。 この子のことは俺がなんとかするから。 俺はこの子がかわいいし、この子がいなくなるのは嫌だ。 そんなに辛いなら、逃げてもいいよ。 死なれるくらいなら、何もかも捨てて、出て行ってくれた方がいいや。 お金は置いていってね、この子のためにお金がかかるから。」

私は笑ってしまった。 

そうか、逃げるなんて考えてもみなかった。 

でもそれもありか...なんて思ったら、気が楽になった。 

それ以来、死にたいと思う事はなくなった。 

もうひとつ、近所の仲の良かった奥さんが鬱病で入院したことで、私の人生観が変 わっ た。 

その奥さんは、お子さんがかわいい男の子なのだけれど、本当は女の子が欲しかっ た そうで、ことあるごとに、「男の子だから大変だ、女の子だったらこんなことには な らなかった。」と愚痴をこぼしていた。

 言葉がほんの少し遅いことをものすごく気にしていた。 

そしてとうとう育児ノイローゼになってしまったのだ。

私から見れば、健常のかわいい子供を持って、裕福で、とても幸せそうに見えるの に、 本人の心の中は不幸な気持ちでいっぱいだったのだ。

 だったら、たとえ、自閉症の子供をもっていても、本人の心の中が幸せな気持ちで いっ ぱいだったら、その人は本当に幸せなのだ。 

人から見て幸せに見えるかどうかなんて、全く関係ないことに気がついた。

 本当に大切なのは、自分自身の心の中の意識だと思った。

 「幸せだと思ったもん勝ち」これが私のモットーになった。 

そして私は、ようやく、娘の障害を受け入れる第一段階をクリアしたのだ。

 話は少し戻るが、娘の障害を疑いだした頃から、私は精神的に不安定になり、体調 も 崩していた。

娘と1日2人きりですごすことが非常にストレスだった。 

療育センターの初診の頃、エステに付属するスポーツクラブの体験のチラシが入っ た。 

託児所付きのところだった。 

エステとスポーツクラブは値段が高かったので、会員数は少なく、託児所に通う子 も 少なかった。 

託児所の対応が悪いと、エステの客を逃がすことになるので、ものすごく丁寧な対 応 だったし、子供の扱いにも気を配っていた。 

見学してみて、ここなら、預けても大丈夫かもしれないと思った。 

さっそく申し込み、週に1〜2回、2〜3時間程度、私は運動をしてサウナには いっ てゆっくりした時間を過ごし、その間娘は託児所に通わせた。

娘は、理解ある先生の元で、少人数で工作をしたり、みんなでおやつを食べたり、 御 遊技をしたり、少しずつ一緒にやれるようになっていった。 

先生3人に子供が5人から10人くらいだった。 

娘はあいかわらず周りの子に無関心だったが、何故か娘を気に入ってくれる男の子 が あらわれ、はたらきかけてくれたことも良い刺激になったと思う。 

親と違い、自分の意思を伝えないと、何もしてもらえないので、言葉が飛躍的に増 え ていった。 

会話にはならなかったが、単語はたくさんしゃべるようになっていった。

ここでは、幼稚園入園まで、とてもお世話になった。

 最後の頃は、「おやつの後、片づけをしない子のトレーまで一緒に片付けてくれま し た」などと、うれしい報告をきけるようになっていた。

 幼稚園に入る前の集団行動の練習として、この経験はとても良かったと思う。 

正式な診断名を告知された頃、3年保育なら、幼稚園の願書を提出しなくてはいけ な い時期だった。 

療育センターの先生に相談したところ、 「娘は療育センターの通園には入れない(知的に重度の子から優先なので)。

保育 園 の障害児枠か、理解のある幼稚園に入れた方が良い。」と言われた。 

2年保育よりも、3年保育を勧められたのだ。 かなり迷ったが、私1人の力で娘の成長を促す自信はなかった。 

健常の子供の中に入れることでの成長を期待した。 

保育園に入れるべきか、幼稚園に入れるべきか、いろいろ悩んだが、最終的に、1 つ の幼稚園に決めた。 

週休二日であること、保育園に比べて保育時間が短いことから、家庭での学習時間 が 長くとれる事や出歩く時間が確保できることが魅力だった。 

幼稚園に事前に行った時、ろくに娘を見ないで、「健常児と同じ扱いですよ。

特別 扱 いはしませんから」と言われた。 

それでもいいと思った、というかその方が良いと思った。 

その時には、障害児には1人ずつ加配の先生がついて、とても過保護にしている園 を みてきたばかりで(先生は子供に寄り添い、集団行動をとらせようとしていなかっ た。 子供の好きなように過ごさせていた)、 「あれでは完全な障害児になってしまう。

できる事までできなくなってしまう。

で き るだけ、健常児と一緒に自然にやってくれるところがいい。」と私達は思ってい た。 

でも、この考えは間違っていたのかもしれない。(が、正解だったのかもしれな い、 本当のところは今もよくわからない)。

私は、入園後すぐに後悔する事になった。(が、今はまたこれで良かったかもしれ な いと思っている。娘には、かなり無理をさせてしまったけれど)。 

この頃の娘は、おままごとをしながら、「おいしそう!」などと言うようになって い た(パターンで言っているだけだが、ここ数カ月で、驚く程しゃべるようになって い た)。

 おむつもとれていたし、多動はおさまっていたし、大人の指示に従う訓練は出来て い たので、何とか加配の先生無しで、幼稚園でやっていってくれるのではないかと 思っ ていた。

ただ、音の感覚過敏のためか、電車に乗っても駅につくたびに大泣きしたり、入れ な いお店があったり、他からみたらおかしな行動は多かったし、泣きわめくパニック も まだ多かった。

会話(言葉のキャッチボール)をすることはできなかったし、こちらの言う事は理 解 しても、自分の気持ちを言葉にする能力は全くなかった。

今思うと、私達夫婦は幼稚園に対する考えが、相当甘かったと思う。 入園してから、1年くらいは、娘も私も、想像以上に大変な思いをすることにな る。

 いよいよ、3年保育で幼稚園に入園する日がやってきた。

入園式とは言っても、体育館で園長先生の話をきいたり、市会議員の話をきいた り、 15分くらい静かにしていれば良かった。

親子同席だったので、安心だった。 娘の入った幼稚園は、年少は1クラスしかなく、人数は25人で、副担任がいた。

親が見に行く事を嫌う幼稚園だったので、初日からいきなり園バスに乗せて、あと は どうしているのかさっぱりわからない毎日だった。

帰ってきた娘に「幼稚園どうだった?」ときいても、「どう」と答えるし、「楽し かっ た?」ときくと「楽しかった」と答えるし、つまりおうむ返ししかしないのだか ら、 幼稚園の様子がわかるはずもなかった。

電話をかけて、うるさい親だと思われるのも嫌だったし、なにかあったら、すぐに 連 絡してもらう約束を信じていたので、何も言ってこないのは、それなりに上手く やっ ているからだろうと勝手に解釈していた。 (御便り帳も形だけのもので、お休みや体育やプールの見学の知らせを書く欄があ る だけだった。)

しかし、それはとても甘い考えだったのだ。 

5月のある日、娘が幼稚園から帰ってきてしばらくしてから、幼稚園から電話が あっ た。 

担任の先生からだ。

 「ルーちゃんは、給食の時、嫌いなおかずがあると、お友達の御弁当箱に入れてし まっ て、止めるとパニックになって泣叫んで、どうしようもない、おうちで何とか練習 し て下さい。周りに座っているお友達も皆嫌がっています。」と言われてしまった。 (給食は御弁当箱に入っている)。 

電話を切ったあと、しばらく私は立てなかった。

ショックだった。 1ヶ月も給食のたびに娘は泣叫んでいたのだ。(週に2回が給食で、あとはお弁 当)。

家族で外食をする際、親からの取り分けが当たり前だったし、お子さまランチなど を 注文した場合も、嫌いなものがあったら、親のお皿に入れてくることを許してきた し、 逆に欲しがるものや食べることができるものを分けてやることもしてきた。

同じテーブルに座っている人間については、食べ物をあげたりもらったりは、当然 と いう習慣だった。

でも、幼稚園では、嫌いなものをどうしたらいいのか、娘にはわからなかったの だ。

「自分のお皿にそのまま残す」ということを教えてこなかった自分に責任があると 思 い、私はとても後悔した。 

その日から、夕食にはお弁当を用意した。 家族で同じお弁当を食べた。

嫌いなものを親の御弁当箱に入れようとするのを止めて、「御留守番」といいきか せ て御弁当箱の隅に置いて残すことを教えていった。

おかずの交換は絶対しないように、家族で徹底した。

 「残す」という言葉はわからないだろうと思い、娘の知っている単語の中で一番近 い 意味のものを選び、「御留守番」を使った。

「御留守番」をマスターする前に、娘は激しいストレスで給食だけでなく、私の作 る お弁当さえも幼稚園で食べなくなってしまった。

幼稚園では残す事は絶対にいけないと厳しく教えており、言葉をそのまま受け取る 娘 は「全部食べる」という先生の命令に逆らえず、かといって嫌いなものを食べる事 も 出来ず、恐怖で御弁当箱をあけることさえ出来なくなってしまったのだ。

娘はただ泣叫ぶことしか出来なくなっていた。

電話のあった翌日から、私は昼時に幼稚園に行き、幼稚園の隣のアパートの植え込 み に隠れて、娘の教室の様子をうかがった。(幼稚園に行く事は断られたので仕方なかった)。

お弁当の歌の後、決まって、娘の絶叫が響いてきた。 

植え込みの中で、私も涙を流した。

幼稚園に対する考え方の甘さをその時私ははじめて知った。

しばらく御弁当箱には塩おにぎりだけを入れてもたせた。 絶対食べられるものしか入れることは出来なかった。

昨日まで好きだったものが、お弁当では急に食べられなくなり、騒ぐこともあった の で、私はもう何をいれていいのかわからなくなっていた。

幼稚園には塩おにぎりをもたせ、家では訓練と言い聞かせを続ける毎日だった。 そのうち先生から、手紙が来た。

「お弁当の時間、ルーちゃんは周りのお友達の御弁当箱を覗き込んで、さみしそう に しています。おかずを入れてあげてください」と書かれていた。

 「御留守番」が定着してきて、泣く事も少なくなっていたので、少しずつおかずを い れるようになった。

全部食べると先生が大袈裟に誉めてくれるので(そうしてもらえるように私が頼ん だ) 、好き嫌いもなくなっていき、お弁当をからっぽにすることが楽しいことになった よ うだ。

帰りのバスからおりると、「おべんとう、からっぽ」と嬉しそうに報告するように なっ た。 

本当にうれしかった。 

七夕の日、七夕飾りをうれしそうに持ち帰ってきたが、御便り帳に何も書いてない 短 冊が入っていて、 「将来の夢を聞いても答えてくれなかったので、お母さんが書いてください」と手 紙 がついていた。 さみしかった。

お誕生日会でもらった誕生日絵本にも、何も書いてなくて(記念になるように書き 込 む欄がある)、
「すきなたべものなど、何も答えてくれないので、お母さんが書いてください」と 手 紙がついていた。

上手に聞き出してくれれば、少しは答えることができるのに、普通の子と同じよう に 聞いただけでは答えられないのは、わかっているはずなのに、本当に特別扱いしな い、 冷たい幼稚園だなと思った。

しばらくして、今度は昼時のほうじ茶が飲めなくて騒ぐようになる。 

粉のようなお茶葉が、どうしても嫌いで、泣叫ぶ。

これも家で練習する事になる。 

帽子がかぶれなくなったり、担任の先生の腕に爪を立てたり(何故か幼稚園の他の 先 生や、お友達や、訓練会の先生や、親にはしなくて、幼稚園の担任の先生だけにし た) 、本当に次から次へと問題が起きて、いろいろ大変だった。

訓練会の先生に相談すると、力ずくでこだわりをたたきつぶすやり方なので、ルー も 私も本当に辛かったが、確かにその方法で上手く行く事も多かった。 

訓練会のトップの先生のくちぐせは、「自閉症はわがまま病、いじめていじめてい じ めぬいて花が咲く」だった。

いじめる...というのは、嫌がることを無理にさせて慣れさせて克服するという意 味 だ。

現在の医学では(?)、やってはいけないことと言われているらしい。 

有名なある先生の講演会で、無理強いで慣れる可能性は20%、悪化する可能性が 8 0%と言っていた。 

娘は運良く(?)、どんどん慣れていき、いろいろなことを克服していった。

ここで厳しく椅子に座っての学習態度を仕込んでもらったこと、手先の訓練、なわ と びやボール投げなどの運動、椅子取りゲームなどの簡単なルールのあるゲーム類を 教 えてもらったことは娘の成長に大変大きな影響を与えたと思う。

基本的に不器用な娘が、お箸が上手になったり、リボン結びができるようになった り、 なわとびや椅子取りゲームが得意になったのは、訓練会のおかげだと思う。 

なわとびは年中の時からクラスチャンピオンだし、今年の夏にあった御泊まり保育 の 時の椅子取りゲームでは38人クラスで上位5人に残った。 

なわとびとボールつき、ボール投げは、今でも雨でない限りは、毎日幼稚園バスか ら 降りて、うちに入るまでに必ず練習する。 

練習しないとうちには入れない。

なわとびは普通に跳ぶ事は得意になったので、今は「お嬢様おはいりなさい」と歌 い ながら2人で一緒に跳ぶ練習をしている。

途中から入ってくるタイミングや人と合わせることが難しいが、楽しく練習している。

ボール投げはこちらが少しずらして投げて、ルーは落下地点を予想して動きながら (前後左右)受け取る練習をしている。 

走りながらのボールのキャッチも上手くなった。 

ボール付きも上手になったので、今は「あんたがたどこさ」を歌いながら練習して い る。

足の下をくぐらすのはとてもむずかしいが、きっといつかできると信じている。

一生この子は出来ないんじゃないかと思えるほど、へたくそでも、繰り返し練習し て いれば、ある時突然できるようになるのだ。

こつさえつかめれば、きっとできるようになる。 

健常の子より、こつをつかむのに、時間がかかるだけなのだと思う。

訓練会の先生に、「自閉症児はななめ線の感覚に弱い」と教えられて、「ぺグ」や 「点図形のワークブック」を使ってななめの感覚を磨いた。

これは知的能力のアップに大変役立ったと思う。

我が家は玩具屋が出来るほど、知育玩具に溢れ、本箱からえほんや図鑑、絵辞典が 溢 れている。 

娘は絵本や絵辞典から字を覚えた(年少の後半に読めるようになり、年中の最後頃 に 書けるようになった(書き順はめちゃくちゃ))。

字を覚えてくれたおかげで、字を書いて説明してやることで、いろいろなことを理 解 することが容易くなり、パニックをさけることが可能になった。

1日の予定が複雑な時や、複雑な二者択一をさせる時など、今もよく画用紙に書い て 説明する。

娘は良く本を読み、知識をどんどん吸収していった。 カレンダーもすべてひらがな書きで娘専用につくり、冷蔵庫にはった(年中か ら)。

今日のところに、キティーの磁石、昨日のところには他のキャラクター、明日のと こ ろにはまた別のキャラクターの磁石をはり、毎日磁石を移動させながら、昨日、今 日、 明日の概念を育てた。 

今はおととい、あさって、なども理解している。 

曜日の感覚もすぐに身についた。

娘が年少の年の暮れ、わが家はついにインターネットをはじめた。 

情報と言う武器を手に入れたのだ。

はじめの数カ月は、もうとにかく夢中になってしまった。

毎日毎日、娘が幼稚園に行っている間、ずっとパソコンの前に座り、電話代はおそ ろ しいことになっていた。

でも、それまで何も知らなかった私の目の前に、信じられないくらい多くの情報が き らきらと光っていたのだ。 

やめることなんて、出来なかった。

いろいろ調べていくうちに、1つのHPに行きあたった。 高機能自閉症のお嬢さんをお持ちの方のところだった。

そのお子さんが、とても娘に良く似ていると思った。 

ある時期から、娘とそのお子さんは、似ていないと思うようになったが、それだけ 子 供の様子はそれぞれに変化を続けて、成長の仕方や方向はさまざまなのだと思う。 もしかしたら、はじめからあまり似ていなかったのかもしれない。

とにかく、その時にはそのお子さんと娘がとても良く似ていると思い、その方との 出 会いが夢のように思えた。

それまで多くの自閉症児に出会っていたが、娘と同じタイプだと思える子はいな かっ た。

それくらい、自閉症児というのはひとりひとり違うのだということを今は知ってい る が、当時は知らなくて、なんとなく孤独だった。

掲示板に疑問に思う事、心配な事、たくさん書いた。 

そして、自分の書き込みで思いもかけず、人を怒らせてしまったり、厳しい言葉を 投 げかけられたり、責められたり、ネットの怖さも知った。 

いろいろあったとき、私と同じように道路で子供を羽交い締めにして人々の視線に 串 刺しにされながらがんばったという大先輩の方と出会って、随分助けていただい た。

私と同じやり方で、お子さんがとても良くなった話を知る事ができて、すごく嬉し かっ た。

やれば出来ることを信じさせていただいた。

このHPでは本当に沢山の情報、励まし、アドバイスをいただいて、感謝している。

年少の終わり頃、年中になるのに、大きな不安はないと担任に言ってもらえた。

幼稚園生活にも慣れ、お友達も出来、自分の気持ちを言葉にすることが、少しでき る ようになっていた。

幼稚園でパニックを起こす事も少なくなっていた。 

年中は、28人に先生が1人になるし、3クラスになるので、かなり心配した。

しかし、よく泣く事はあったが、大きな問題はなく過ごすことが出来た。 

3年保育で入れたおかげで、年少の時に一緒だった子供達の団結力というか、仲間 意 識に助けられた。 

行動療法という言葉も、このHPの掲示板にやってくる「ふじさん」(やっと登場 !) という方の書き込みで知った。

「わが子よ声をきかせて」も読んだ。

行動療法については、週に20時間〜40時間などという考えられない時間を療育 に 費やすことから、私には絶対無理だと思っていた。

ふじさんの「言葉の出ないお子さんへのアプローチの仕方」の書き込みなど、非常 に 興味深かったけれど、娘にはあまり関係ないと思って読んでいた。

でも、何度となくふじさんの書き込みを読むうちに、行動療法の素晴らしさ、ふじ さ んの知識の深さ、熱意、いろいろなものに心を動かされていった。

年中になった5月、思いきってふじさんに掲示板で質問をした。 

ふじさんから掲示板で答えをいただいたのは、2000年5月16日火曜日だった。

今でも、大切にコピーしてとってある。

上級言語訓練に関してで、いただいた答えは、すごく納得のいくものだった。

私は、行動療法を試してみたくてたまらなくなった。 

行動療法を実践しているところをいろいろ調べてみた。

最終的には、ふじさんの勧めてくださる某大学にお世話になることになった。

年中の夏からはじまった行動療法は思っていた以上に娘の力となっていった。

行動療法をはじめてたった数カ月で、あれほど無理だと思っていた疑問詞を使える よ うになった(一部の疑問詞を使うことには、もう少し時間が必要だったが)。

自発的な質問と自発的な報告も全く出来なかったのが、一気に出来るようになって いっ た。

「これなあに?」の課題はふじさんに作っていただいたが、娘のつぼにはまり、す ぐ に日常会話で使えるようになった。

『待っていてもどうしても出なかった言葉が、毎日繰り返し教える事で、確実に出 る ようになる。』 これが、行動療法に対する私の感想だ。

モ−リスプログラムは、おもしろいように、娘の足りないところを補っていってく れ た。
娘の能力の伸び方が、あまりにも大きいので、療育センターなど行動療法に反対の 立 場の先生も、私の話に耳を傾けてくれるようになった。

「行動療法の効果が出ている事を認めないわけにはいかない」と言われた。 「ここまでよくなるとは思わなかった、驚いた」とも言われた。

行動療法をはじめて1年がすぎた今、言葉のキャッチボールがかなりできるように なっ た。

子供同士ではまだ難しいが、大人とはかなり会話らしくなる。 とにかく、こちらの投げかけた言葉に、きちんと答えが返ってくるのだ。

それも、普通の子が使うような言葉使いで。 

年長は38人クラスで先生1人だが、大きな問題なくなんとか過ごしている(かな り 泣き虫だけれど、泣いてもすぐにおさまるようになった)。

助詞の使い方が上手くないので、おかしな文章をしゃべることも多いが、言葉を 使っ て気持ちを通わせることが出来る。 

電話での会話も少しできるようになった。

今では「だって、みんな○○だよ!」などと、生意気な口もきく。 

訓練会などでは、年下の子達に、「○○しちゃ、あぶないよ!」とか、「こうやる ん だよ!」とかお姉さんぶっている。

1年前には、全く考えられない事だ。

年長になってから、いろいろな療育の場を持つようになったが、娘の状態がとても 良 い事から、他のお子さんのお母さん達から必ず聞かれることがある。

「今までやった療育で一番良かったものは、何ですか?」 「何でそんなにルーちゃんは良くなったと思いますか?」 私は「行動療法」が一番良かったと思うと答える。

他の方法は、目に見えて結果が出なかったので、どれだけ効いていたのかわからな い。 

行動療法だけが、やったことが、そのままきちっと目に見えてかえってくるから だ。

病院の言語療法の先生にも、普通こういうタイプの子はふざけてしまってやらな かっ たり、集中できなかったりするのだけれど、ここまできちんと課題をこなす子は少 な いとほめていただいた。 

小さい時から、大人の言う事に従う訓練を厳しくしてきたからだと私は思う。

毎日の行動療法も良い影響を与えていると思う。

娘より、状態の良い子でも、大人のいうことを聞かない子は多く、親がてこずって い るケースは結構多い。 

来年の就学については、「普通学級」と結論が出た。

就学時検診も無事終わった。 3歳すぎには80だったIQも、今は130を超える。

これからの3ヶ月で、普通学級でやっていくために、娘に足りないことを、補って い くように、がんばりたいと思っている。

それは情緒面の安定と、コミュニケーションの質をあげることと、正しい助詞を 使っ て長文を話すことだ。

情緒が不安定になると、独り言を言ったり、すぐに泣いたりすることはやめさせな い といけない。

もっと人の気持ちを考えたり、状況を考えたり、人間関係をきちんと考えながら、 行 動したりしゃべったりすることが、最大の目標だ。

長文を話すことは、行動療法で練習していけば、実現可能だと信じて、日夜努力し て いる。

就学後もきっと大変なことがたくさん起きると思うが、問題をひとつひとつ解決し な がら、進んでいきたいと思っている。

私はこれからも行動療法を続けたいし、多くの方にその素晴らしさを伝えたいと 思っ ている。

行動療法のおかげで今の娘がいる。 

その行動療法を教えてくださったふじさんには心から感謝している。

そして、私の恩返しは、これからも行動療法の素晴らしさを多くの方に知ってもら う ことだと思っている。(終わり)。

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