娘たち

 

重い軽いに関わらず、家族の中に障害をもった方がいると、家族の協力が必要になってきます。うまく役割を決めて、能率よく一日を過ごせたらと私はいつも思っています。

これはなかなかむずかしいことですが・・・

 

ラッキーなことに私には2人の娘という協力者がいます。

この2人が喧嘩をしながらも、第2のえっくんママとなってくれています。

いや、本当のママより、ママをしてくれています。

とくに長女は私よりもしっかりとした考えを持っていて、

以前、診断されて落ち込んでいた私に、「ママ、大丈夫よ、私が言語療法士になって

えっくんを治してあげるから」当時彼女は小学校6年生

私はこの一言で、ものすごい救われました。

家族の中でも一早く自閉症関連の本を読み上げ、前向きな姿勢を示したのは彼女でした。

 

現在ハイスクールに通う彼女です。学校から他国語を学ぶ選択を与えられたのですが

彼女はみずから学校の校長先生に他国語をならうのなら、手話の勉強をさせてほしいと

願いでたそうです。弟の事情と言語療法士になる夢を説明したら、学校側がそれに協力するということで、今年の9月から大学で手話の授業を特別に受けることになりました。

今は毎回息子が受ける言語療法に付き添い、勉強中でございます。

 

以前彼女はまったく日本語がわからない状態で、日本の小学校に1年間通う経験をしました。あいうえおの訓練からはじまり、一年後にはかなり会話も上達し

ある程度の漢字の読み書きもできるようになりました。

 

これはその彼女が卒業文集でかいたものです。まず、英文で本人が書いてわからないところは先生が協力していますが・・・

 

 

六年生の思い出

 

 私は六年生の五月からこの○○小学校に通い始めました。

私ははアメリカのノースダコタ州で生まれて、青森県に四年間、沖縄に三年間、

アメリカのフロリダ州に三年間すんでいました。

そして、私のおじいちゃん、おばあちゃんがいる○○県に引っ越してきました。産まれてから十二年間ずーっと英語での生活で日本語はほとんど、わかりませんでした。おじいちゃんやおばあちゃんとせっかく近くに住むことができても、お話することができませんでした。こちらにきてからも、アメリカンスクールにかよっていましたが、お母さんから、日本の学校の話をよくきかされ、自分も興味がわいてきました。

ある日、お母さんに妹といっしょに日本の学校に行かないか、という話をきかされ、不安ながらも行く決意をしました。どうして決意したかというと、私には

言葉が話せない知的障害をもった弟がいます。この弟が毎日がんばって生きている姿を見て、私も言葉のちがうかんきょうに、はいってもがんばろうとおもったからです。最初は不安ばかりでした。みんなが話すことがまったくわかりませんでした。でも先生やお友達にたすけてもらって、いろいろなことを学びました。アメリカンスクールでは学べない良いことも、悪いことも、けいけんをしました。

一度はお友達ができなくてやめようと思ったこともありました。

でもいま思うと、良い思いでです。

○○小学校に来て本当によかったです。

いろいろと私を支えてくれた先生方にかんしゃします。ありがとうございました。

 

 

 

彼女はえっくんにいろいろな影響を受けて、成長しているようです。

障害をもってしまったけれど、でも共存していくことはけして

悪くない、ましてやすばらしい事に思えているのです。