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ふじさんの体験

1. 障害を自覚する

つみきの会代表の「ふじ」と申します。娘の加奈(仮名)は95年の5月に、私たち夫 婦の初めての子どもとして生れました。退院直後から、娘の眠りが浅いことに、私たちは悩まされました。赤ちゃんが頻繁に 起きるのは当たり前ですが、普通の子なら徐々に睡眠が安定する時期になっても、加奈は頻繁に目を覚ましては泣きました。妻は極度の不眠に悩まされました。 体の発育は順調で、1歳の頃に立って歩き始めました。しかし言葉はなかなか出てきませんでした。私は次第に、娘の様子がおかしいことに気が付き始めました。よく覚えているのは、 1歳になる前だと思うのですが、私が自宅の共同住宅の前庭で加奈を抱いていたら、お隣のおばあさんがベランダから加奈に声をかけてくれました。私は加奈を抱きあげて、おばあさんに娘の顔を見せようとしました。しかし加奈はうつむいたまま、おば あさんの顔を見ようとしませんでした。「目が合わない。」それは悪い兆候であることを私はどこかで聞いたことがありました。案の定、1歳半検診の後、保健センターから電話がかかってきました。「気になるこ とがあるから、発達に心配のある母子のための教室に来ませんか」と誘われたのですしかしその時、妻は娘に問題があることを認めようとせず、誘いを断りました。 私も無理に勧めはしませんでした。 それから2歳の誕生日を迎えるまで、私たちは加奈が言葉をしゃべりはじめるのを今か今かと待ち続けました。その頃加奈は、「ダリダリダリ」とか「オババ」と言った 無意味な発声ばかりを繰り返していました。私たちは加奈が今までにない奇妙な発声 をするたびに、これが言葉の前触れかもしれない、と期待しました。しかしそれはいつも裏切られました。 97年5月、加奈は2歳の誕生日を迎えました。しかし相変わらず言葉は出ません。それどころか、私たちの言葉もほとんど理解していない様子でした。妻はとうとう不安を抑え切れなくなって、私に本屋さんで子どもの発育に関する本を立ち読みしてくるように頼みました。 私は言われた通りに近所の大きな本屋に行って、子どもの病気に関する一般的 な本を手に取り、知的障害に関する部分を立ち読みしました。簡単な記述でしたが、 そこに書いてあることはいちいち娘にあてはまりました。しかも2歳という幼い時期 に明らかに症状が出る場合は、一般に重度であることが多い、と書いてありました。 私は家に帰って妻にそのことを告げました。妻はもう覚悟していたようでした。それ 以上、私の言葉に抗弁することなく、ただ台所にしゃがみこんで、加奈を抱き寄せ、 大声で泣き始めました。

2.診断を受ける  

加奈に知的障害があることを覚悟して数日後、私たちは市の保健センターに相談に行きました(6/13) 。そこで臨床心理士の先生に簡単な聞き取り式の発達検査(遠城 寺式)をしていただき、発達年令は大体10ヵ月程度、と言われました。加奈が2才 1ヵ月(25ヶ月)の時です。私たちは保健センターが開いている、発達の遅れのある子とその親のための教室に 通うことになりました。1歳半検診の時に誘われた、あの教室です。それと同時に、保健センターから近くのこども病院のY先生を紹介していただき、診察を受けに行き ました(6/26) 。保健センターの人の口振りでは、Y先生はこの辺りの権威であるようでした。Y先生は娘を見て、私たちの説明を聞くと、「仮診断ですが、自閉傾向でしょう」 と言いました。私は意外に思いました。というのは、その時まで、加奈はいわゆる知恵遅れ(単純な精神遅滞)だとばかり思っていたからです。「自閉(症)」について、その時私はほとんど何も知りませんでしたが、とにかく 知恵遅れよりはましなような気がしました。私にとって知恵遅れは死刑宣告にも等しいものでした。それに対して自閉症は何かまだ救いがあるような気がしたのです。し かもY先生は「自閉傾向」と言いました。これは「自閉症」よりもっと軽そうに聞こえました。私は救われたような気がして、うれしくなりました。自閉症の約8割が精 神遅滞、いわゆる知恵遅れを伴うこと、さらに単純な知恵遅れと違って社会性に障害があるため、社会への適応が一層困難であること、そして「自閉傾向」という言葉 が、親が「自閉症」という恐ろしい宣告から受けるダメージを和らげるため、医者に好んで用いられていること。そんなことを知ったのは、かなり後のことになります。 Y先生はさらに、「この子は自閉傾向のなかでもかなり軽い方です。本当に端っこ の方です。」と言いました。私が、「この子は将来結婚したり、大学に行ったりでき るようになるでしょうか。」と聞くと、Y先生は「かなり知能指数が低い女性でも、結婚して、普通の家庭生活を送っている人がいますよ。」と私を安心させるようなこ とを言いました。また加奈が将来、短大や大学に行けるようになる、というようなことも言いました。 私はすっかり気持ちが軽くなってきました。「この子に対して、これからどうした らいいんでしょう。」と私は聞きました。Y先生からもらったアドバイスは次のようなものでした。まず引き続き保健センターの指導を受けること。子どもと関わる場合 には、例えば他に気の散るようなもののない部屋におもちゃを一つだけ置いて、それをやらせてみるとよいこと。親に対する愛着心を育てることが大事だから、強制せず に、愛情を込めて育てること。そんなに難しいことではありません。それまでも私は甘い父親でした。加奈は私の仕事部屋の本棚から法律の本をひっぱりだしてきて、それを床に並べるのがお気に いりでしたが、私はそれを叱ったことは一度もありませんでした。要するに、いままで通りにしたらいいんです。そして保健センターのアドバイスだけちゃんと実行して いけば、加奈はだんだんよくなっていき、言葉も出てくるし、大学にも行けるし、結婚もできる。私はそう考えました。それから1ヵ月後に『わが子よ、声を聞かせて』 に出会うまで、私はすっかりのんびりした幸福感に浸っていました。

3.保健センターの指導  

市の保健センターには発達に遅れのある子のためのいくつかの教室があるようでした。私たちがこども病院で「自閉傾向」という仮診断を受けたことを報告すると、教 室の指導にあたっている臨床心理士のT先生は、私たちをそれまで通っていた教室から、別の曜日の教室に移しました。そこに通っているのは、ほとんどが自閉症(自閉 傾向)のお子さんのようでした。教室はテーブルも椅子もない広い空間で、そこに子どもの背丈以上もある大きな ボールや、クーゲルバーンといって、小さい玉を上の穴から入れると、それが木製の 溝に沿ってころころと斜めに下まで転がっていくおもちゃなどが置いてありました。子どもは十数人いましたが、みんな、ただうろうろと部屋の中を歩き回っていたり、 母親にくっついていたりで、誰もそれらのおもちゃで遊んではいませんでした。T先生の指導は、簡単に言うと、「子どもを1日に何回もほめてあげて、抱き締め てあげて。」というものでした。確か「1日6回ほめる」という具体的な目標を私たちに与えたと思います。それ以外に何か具体的な治療法、教育法を指導することはあ りませんでした(ただし、私たちは前の教室と合わせても正味1ヵ月余りしか通っていません)。 妻はその頃、加奈に何かを教えようと一生懸命でした。妻は加奈の知的障害を覚悟 した当初はただ泣き暮れていましたが、そのうち俄然加奈にいろんなことを教えようとし始めました。妻はくやしかったんだと思います。加奈も近所の同年代の子どもと 同じように、いろんなことができるということを、証明したかったんでしょう。妻が教えたのは、拍手とかグッパー、といったごく単純なことです。しかし加奈は そんな簡単なこともできませんでした。およそ大人の動作をまねする、ということができなかったんです。 妻は朝から晩まで、暇を見てはそれを加奈に教え続けました。例えばまず「結ん で」と言って自分が両手に握りこぶしを作り、加奈の手も指を折ってやって握りこぶしを作らせます。そうやって何度も何度もやらせているうちに、加奈は妻が「結ん で」というと自分で両手を握るようになりました。同じように訓練して「拍手」というと拍手できるようにもなりました。あとで振り返れば、これは一種の行動療法で した。私が病院のY先生の言葉にすっかり安心してのんびりしている間に、妻は自己流で行動療法を始めていたのです。妻はT先生の教室でも教育ママぶりを発揮しました。さっき説明したように、教室 にはクーゲルバーンという玩具がありましたが、誰も玉をとって穴の中に入れようとする子はいません。うちの加奈もそうでした。 妻は加奈にクーゲルバーンの遊び方を教えようとしました。うろうろする加奈を捕 まえて、玉を手に握らせ、穴に手を持っていって入れさせました。するとT先生を補助している保健婦の一人がやってきました。「ここではそんなこ とはしないのよ」とその保健婦は言いました。他の親も寄ってきて言いました。「こ こじゃ、そんなことしちゃいけないらしいよ。」要するに手をとって何かをさせようとしてはいけないらしいのです。ただ子どもの することをひたすら見守って、「自発」を待つ、というのが、T先生の指導方法のよ うでした。しかし妻は飲込みの悪い生徒でした。その日の教室が終わってお帰りのとき、妻は加奈の手を取って、みんなに向かって「バイバイ」と手を振らせました。 すると今度はT先生自身が走ってきて言いました。「お母さん、そんなことやめてください。」T先生はそのとき、「お母さん、自閉症のこと、忘れて。」とも言った そうです。要するに障害のことをくよくよせず、あるがままの子どもを受け入れろ、というのでしょう。妻はT先生の言うことを疑っていたわけではありません。T先生が「一日に何度で もほめてあげて。抱き締めてあげて。」と言うので、妻は自分がそれまでやさしさが 足りなかったから、加奈がこうなってしまったのかも知れない、と自分を責めていま した。しかしその時の加奈の状態では、実際ほめようにもほめる材料がないのです。一日中、何もしない子どもをどうやってほめることができるでしょうか。 加奈はおもちゃ遊びをまったくしませんでした。積み木を買ってきても、せいぜいそれをなめるだけで、あとは無視しています。ほかの赤ちゃん用のおもちゃでもそう でした。本来の用途には使わず、ただ口に入れるだけです。 加奈はテレビを見るのが好きでした。それもお気にいりのビデオでないと見ようと しません。その頃の加奈のお気にいりは、「アルプスの少女ハイジ」と「となりのト トロ」でした。「ハイジ」はテレビで放映された1話から7話までを1巻にしたものですが、それを毎日毎日見ていました。私たちも付き合わされて何百回も見たため に、せりふをすべて覚えてしまう始末でした。しかし加奈はストーリーを理解しているようには見えませんでした。ただハイジやトトロをつけると興奮してきて、 「キー」と叫びながら、テレビのあるダイニングキッチンと、その隣の畳の部屋との間を行ったり来たり走り回るのです。加奈は外出するとき、気に入った目的地に着くまでは、地面に降りて歩こうとはし ませんでした。必ずだっこかベビーカーです。無理に地面に降ろして手を引いて歩かせようとすると、ものすごいパニックを起こしました。「ギャー」とすごい声を上げ ながら、私の足にすがりついてくるのです。妻はこのことをT先生に相談しました。「いつになったら、歩けるようになるんで しょう。」妻がそう聞くと、「お母さん、大丈夫。十年もかからないから。」とT先 生は言いました。どうしたらいいか、に関するアドバイスは何もありませんでした。 でもまあ、そのときは「なるほど。待てばそのうち歩けるようになるのか」と納得し ました。 加奈は相変わらず言葉がありませんでした。それが私たちの一番の心配でした。そ の点を聞かれると、T先生は、「わたしは5才が一つの目安だと思っています。」と 言いました。それがどういう意味かは詳しく説明しませんでしたが、私たちは、「5 才まで待て」というメッセージと受け止めました。他の親も同様だったようで、「5 才まで待てばいいんだから。」と気楽に言っている親もいました。今ではT先生の 言ったことの本当の意味がわかります。「5才までにはみんな言葉が出る」という意 味ではなくて、「言葉が出る子の場合は、だいたい5才までには出る。5才を過ぎても出なかった場合は、その後出るようになる子は少ない。」という意味なんです。自 閉症の専門書には、自閉症児の発語の経過について、大体似たようなことが書かれています。でも、T先生は親の誤解を知ってか知らずか、そのままにしていました。

4.行動療法との出会い  

こども病院でY先生の診断を受けてから1ヵ月ほど経ったある日(7/23) のことで す。妻は私に「やっぱり加奈のことが心配だから、本屋に行って何か自閉症の本を 買ってきて。」と言いました。私はY先生の言葉にすっかり安心していたので、そんな気はありませんでしたが、妻に言われたとおり、また近所の大きな本屋に行きまし た。本屋の教育関係のコーナーに行くと、自閉症に関する本が本棚の二段くらいを占領 していました。私は何冊かを手に取りながら、どうせ一冊買うなら、読みやすい手記 がいいだろう、と思いました。そしてたまたまそこにあったキャサリン・モーリス著『わが子よ、声を聞かせて・自閉症と闘った母と子・』(NHK出版)を選んだので す。私は後から振り返ってみて、あのときなんて自分は運がよかったんだろう、と思い ます。『わが子よ、声を聞かせて』は私が買う3年前に日本で出版され、私が買った 頃には、もう本屋の書棚から消えかけていました。初版が売り尽くされ、出版元では再版の予定がなかったからです(その後、親の要望に応えて再版されました)。あの とき、妻が本を買ってこいと言い出さなかったら。あのとき書棚に『わが子よ』がなかったら。あるいは私が別の本を選んでいたら。おそらく私たちが行動療法に出会う 時期はずっと遅れていたでしょう。そしてそのことを一生悔やむことになっていたでしょう。 私は何気なしに『わが子よ』を買ってきたのですが、読み始めるとすぐにその内容 に夢中になりました。それはニューヨークに住む、ある母親の手記でした。その母親、キャサリン・モーリスの2才になる娘、アンマリーが自閉症と診断されるところ から、その本は始まります。モーリスさんが必死になって治療法を探していたとき、親戚の一人が雑誌に載っていたある記事を紹介してくれました。それによると、UC LAのロバース教授という人が、行動療法という方法で幼い自閉症児19人に週40時間 の1対1の治療を2年以上施したところ、そのうちの9人が正常な知能水準に達し、 しかも付き添いなしで小学校普通クラスに進学することができたというのです。モーリスさんはそれを読んでさっそく行動療法を自宅で始めることを決意し、大学 院で行動分析学を専攻していたブリジットという学生をセラピストとして雇います。モーリスさんは最初、行動療法が好きになれず、抱っこ療法に傾倒するのですが、そ の間にもブリジットは着々と成果を上げ、ついにモーリスさんもそれが行動療法の成果であることを認めます。アンマリーはその後劇的に回復し、とうとう普通の子と全 く変わらない状態になってしまう、という話でした。私はほとんど1日でそれを読み通しました。そして読んでいる途中から、もうこれ は私たちもやるしかない、と思いました。その本の巻末には、この話が真実であるこ とを疑う、日本の専門家のコメントが載っていましたが、私はこの話が真実であることを疑いませんでした。この本を読めば、著者が稀に見る高い知性を持ち、しかも誠 意を持ってこの本を書いていることがわかります。 もう一つ、この本を読んで驚いたのは、そこに描かれている行動療法のアプローチ が、これまで保健センターのT先生から受けてきた指導とほとんど180 度違う、とい うことです。私たちはこれまで、子どもに介入するな、ただひたすらほめて抱き締め て、愛情を注げ、と教えられてきました。専門家の言うことですから、その通りにし ていたら、子どもはきっとよくなる、と信じてきました。しかしこの本に描かれている行動療法では、子どもに積極的に介入しろ、と教えています。子どもの「自閉的」な行動は許さない。子どもを片時も一人にせず、絶えず 働きかける。自発を待つのではなく、いろんなことを手取り足取り教えてやり、何回も何十回も練習させる。もしこの方法が正しいとしたら、保健センターの指導は全く間違っていることになり ます。そして、もう私はこの方法が正しいことを疑いませんでした。それほど、この本には説得力があったのです。私は自分が読みおわると、すぐに妻にもこの本を読んでもらいました。妻も読み始め るとすぐに私と同じ結論に達しました。いますぐ、行動療法を始める、ということです。  

5.治療開始まで  

それからは、いろんなことを一度に始めたので、何から説明してよいのかわからな いほどです。今となっては記憶も正確ではありません。まず『わが子よ』には、ロバース博士の書いた『ザ・ミーブック』というマニュア ルがある、と書いてありました。私はそれを手に入れたいと思いました。まず、この本の翻訳が日本で出版されていることを期待しましたが、残念ながら翻 訳はありませんでした。しかし私は一応英語の本が読める程度の英語力がありましたので、原著でもいいから、手に入れたいと思いました。私はその頃まだパソコンを持っていなかったので、出身大学の知り合いの教授に頼 んで、インターネットで全国の大学図書館を検索してもらいました。すると、国会図書館にも全国の大学図書館にも、ミーブックは所蔵されていないことがわかりまし た。私はショックでした。いまでもこの点に関して、日本の専門家に憤りを覚えます。ミーブックは81年にアメリカで出版され、アメリカではABAのマニュアルとして定 評があるようです。日本の行動分析の専門家は、どうしてこのABAの古典的作品を日本語に翻訳しなかったんでしょうか。もし翻訳されていたら、たくさんの自閉症児 とその親が救われていたはずなのに。それどころか、原著すら大学図書館に購入していないなんて。もっとも、日本になくったって、今ならアマゾンコムで取り寄せれば済むだけの話で す。しかしその頃は私はまだ丸善しか知りませんでした。丸善に電話でミーブックを注文したところ、2、3ヵ月かかると言われました。あれから4年しか経っていない のに、いまでは嘘のようなのんびりした話です。しかしとにかく、当面ミーブックなしで治療を始めるしかありませんでした。 私はミーブック以外に、何かマニュアルとして使えるものがないか、と思って大き な本屋に行きました。そこで太田昌孝・永井洋子『認知発達治療の実践マニュアル』(日本文化科学社)という本を買ってきました。この本は行動療法の本ではなく、プ ログラムもだいぶ違っていましたが、とりあえず使えそうなのはこれしかなかったの です。 次に誰が治療を担当するか、ですが、これは取りあえず私が自分ですることにしま した。私は短大の講師をしていて、ちょうど夏休みに入っていました。夏休みの間 は、一日中治療に費やすことも可能です。妻も最初ちょっとやってみたのですが、加 奈がすごく泣くので、恐れをなして私に任せました。しかし私だけではとても週40時間は無理です。夏休みが終わってしまえばなおさら です。それに私とて、初めてのことでとても自信がありません。なんとかブリジット のような専門のセラピストを雇いたいと思いました。私は近くの三つの大学(神戸大学、武庫川女子大、関西学院大学)に問い合わせをしました。武庫川女子大では事務局が専門の教授に問い合せてくれましたが、結局色 よい返事は帰ってきませんでした。関西学院大学にはセラピスト募集のアルバイト広 告を出してもらったのですが、誰も応募してきませんでした。ちょっと遠すぎたのも あると思います。 神戸大学は、地理的に近いことから一番期待していました。発達科学部の障害児教育 専門の先生に面会して、学生の派遣をお願いしました。その先生は行動療法の専攻で はありませんでしたが、親身になって検討して下さいました。しかし該当者が少なく、唯一推薦していただいた大学院生も、修士論文の準備に忙しくて行動療法の本を 読んでいる暇はない、ということだったので、お断わりしました。その頃には、もう 治療もある程度進み、妻も参加していたので、なんとか二人でやっていくメドがつい ていました。結局、これを機会にセラピストを探すことは断念し、夫婦二人だけで行 動療法をやっていくことになります。

6.治療を開始する  

話がちょっと先に進みすぎました。まだ治療を始めていません。 私が加奈を椅子に座らせて本格的に(?)行動療法を始めたのは97年の7月29日の ことです。『わが子よ』を買ってきてから6日しか経っていません。まだこの時には 手元にマニュアルもなく、どうしていいかもよくわかっていませんでした。しかし早 く始めないと、決心が鈍ってしまうような気がしたのです。とにかく始めることにしました。部屋は、それまで寝室に使っていた部屋を治療専用にしました。時間はとり あえず、一回45分のレッスンを1日3回することにしました。 まず椅子に座らせなければいけない。私はそう思いました。『わが子よ』でもブリ ジットは椅子に座らせる訓練から始めています。しかしうちの子は、これまで気が向 いたときにはいつでも席を立たせてきました。つまり自由を拘束したことがなかった んです。もしむりやり座らせようとすると、ものすごく抵抗してくることが予想され ました。  私が考えたのは、かなり荒っぽい方法です。わが家にはもう使っていない、赤ちゃ ん用の食事テーブルつきの椅子がありましたので、これを使うことにしました。加奈 を抱き上げてこの椅子にすわらせます。加奈はまだ抵抗しません。いつもどおり、い つでも好きなときに立てると思っているからです。  しかし私はテーブルの下で加奈の両膝に手をかけて、加奈が立とうとしたらいつで も抑え付けられるように、待ち構えていました。  加奈はしばらく食事テーブルの上に置かれたおもちゃをいじっていましたが、やが て立ち上がろうとしました。そこで私が加奈の両膝をぐっと抑えつけました。これが 長い戦いの始まりの合図でした。  加奈は案の定びっくりして泣きだしました。そして2才2ヵ月とは思えないような 強い力で足を突っ張り、立ち上がろうとしました。私は満身の力を込めて、加奈の太も もを抑えつけました。  加奈はしばらく一生懸命立ち上がろうとしていましたが、やがてあきらめたように 力を抜きました。私も両手の力を抜いて、加奈に課題をさせはじめました。ただし片 手はまだ膝の上に置いています。しばらくすると、また加奈が立ち上がろうとしまし た。私はまた両手で渾身の力を込めて、加奈の膝を抑えつけました。加奈はまた大声 で泣き始めます。 その日はそれの繰り返しでしたが、2日と経たないうちに、加奈の抵抗は弱まって きました。それでも最初の一週間はよく泣きましたが、とにかく私が椅子から抱き上 げるまで、おとなしく座っていられるようになったのです。私にとって、最初の勝利 でした。  いまからふりかえってみれば、ずいぶん乱暴なやり方をしたものです。ミーブックによれば、椅子に座らせるためには、まず椅子の前に子どもを立たせて、子どもの肩 をぽんと軽く押してやり、子どもが座ったら食べ物とほめ言葉で強化する。すぐ立たせて、同じことを繰り返す、という方法が取られています。しかし前にも書きました ように、その時にはまだ手元にミーブックがありませんでした。ですから、自分で工 夫するしかなかったんです。 初めて最初の2日間は、『わが子よ』の巻末付録の「ミッシェルのプログラム」 (ミッシェルというのはモーリスさんの3番めのお子さんで、この子もアンマリーと同様に自閉症と診断され、やはりアンマリーと同様に行動療法によって回復したので す)と、太田昌孝さんの『認知発達治療の実践マニュアル』しか手元にありませんでしたので、その二つをもとにプログラムを考えました。実際にやったのは、「こっち見て」と言って目をあわせる練習。積み木を積ませる。プラステン(5本の棒に、真ん中に穴の開いた5色の丸い木の円盤が各10枚ずつ差してあるもの)の円盤を棒にはめさせる。型はめ(木の箱にいろんな形の穴が開いていて、それに合う形の積み木を入れる)。名前を呼んで手を上げさせる、などです。  一方私は、治療を始めた7月29日の午後、神戸大学発達科学部の図書館へ行き、そこでロバース博士がミーブックの前に書いた本、『自閉児の言語』(原題:Autistic Children)の翻訳を見つけて、コピーを取ってきました。これを見つけたときはうれしかったです。なんせ初めてロバースの書いた本が手に入ったんですから。この本は梅津耕作という先生が中心になって翻訳したものですが、もう絶版になっていて、大 学図書館くらいでしか手に入りません。私は神戸大学の非常勤講師をしていた関係 で、簡単に借りることができたんですが、一般の方には入手が難しいと思います(神戸市立図書館には所蔵があります)。  この本はミーブックと違って、言語訓練に絞って書かれたマニュアルでした。これを読むと、ロバースがどうやって言葉のない子に言葉をしゃべらせていったか、がよくわかります。私はその方法にたいへん感心したので、あとでまとめを作って保健センターのT先生にお見せしたほどです。ここにも、簡単に紹介してみましょう。  ロバースによる言葉を引き出す方法は、音声模倣の訓練と受容言語の訓練の二本柱 から成っていますが、ここでは、音声模倣の訓練の仕方を説明します。 音声模倣というのは、大人が「ア」と言ったら「ア」と言い、「いわし」と言った ら「いわし」と言う、というように大人の言葉をまねることです。普通の子どもならほおっておいても自然にできるようになるのですが、自閉症児の場合はこれが難しい。うちの加奈も全くできませんでした。  ロバースはこの反応を段階を踏んで、ゼロから徐々に築き上げていきます。まず第 一段階では、すべての発声を強化します。つまり子どもがいつどんな声を発しても、 それにお菓子などのほうびを与えるのです。それで発声が増えてきたら、次の段階へ と進みます。   第二段階は、大人が何でもいいから声を発して、その直後に子どもが声を発した場合 に限って強化します。つまり大人が「ア」というのに対して、子どもが数秒以内に 「イ」でも「ブー」でもなんでもいいから発声するように仕向けるのです。逆に大人 が発声していないときに子どもが発声しても、それは無視します。それによって、パ パが何か言ったら、そのすぐ後に何か言えばいいんだな、ということを理解させるの です。 大人の発声のあと数秒以内に子どもが発声するようになったら、次に進みます。今度 はいよいよ模倣させるのです。大人が「ア」というのに対して、子どもが少しでも 「ア」に似た音を出したときだけ強化します。それ以外の音、例えば「イ」や「ブ ブー」は無視します。子どもの声がだんだん「ア」に近くなってくると、今度はさら に「ア」に近い音だけを強化し、後は無視してしまいます。こうして、最後には大人 の「ア」に対して「ア」と返ってきたときだけ強化するようにします。  これで初めの音が出来上がりました。次は二番めの音、例えば「ン」について同じ ことを繰り返します。せっかく「ア」と言ってくれるようになったのにもったいない ですが、今度は子どもが「ア」と言っても一切無視して、大人が「ン」というのに対 して「ン」に近い発声をしたときだけ強化するのです。  こうして「ン」が言えるようになると、今度はまた「ア」に戻って訓練をし直しま す。そうして徐々に、大人が「ア」と言ったら「ア」、「ン」と言ったら「ン」と言 えるように持っていくのです。大人がこの二つの音をランダムに言っても、正確にそ れを模倣できるようになったら、第三、第四の音を同じように導入していきます。 このやり方は大変手間がかかりますが、理に適っていると思いました。それまでは 加奈がいつしゃべりだすかわからない、もしかしたら永久にしゃべるようにはならな いかもしれないのに、ただひたすら言葉が出るのを待っていなければいけなかったのですが、この方法なら、もう待っている必要はありません。私の力で、加奈に言葉を 話させることができるのです。 私は訓練を始めて2日目(7/30)の夜から、プログラムを変え、音声模倣を中心に据 えることにしました。これもいまからふりかえれば乱暴なやり方です。ミーブックを 読むと、最初はまず動作模倣や音声指示、マッチングなどの初期課題をしっかりや り、かなり学習姿勢がついてきてから音声模倣の訓練に移ることになっています。しかし何度も言うようにそのときはそんなことは知らなかったのです。ただ一刻も早く、加奈に言葉を話してほしい。そればかりを願っていました。

7.はじめての言葉  

私はそれまでやらせていた、積み木やプラステンなどの道具を使った課題は全部やめてしまいました。その代わり好きな絵本(理解しているのではなく、めくったり、 意味のない細部に見入るのが好きでした)やおもちゃを与えてリラックスさせ、何か 発声するたびにすきなお菓子のかけらを与えて強化しました。その頃、加奈が発声していたのは、「アー」「ダリダリ」「オバーン」「ババ」 「イー」「オー」といった、意味のない発音がほとんどでした。ただひどく泣いているときや強い要求があるときに、よく「マンマ」とか「ママ」ということがありまし た。これは加奈が泣いているときに、妻がよく「ママ、ママ、ママよ」と言ってあやしていたので、その模倣かもしれません。しかしこちらが「ママ」と言わせようとし てもまねすることはありませんでした。加奈はその頃まだ母乳を飲んでいました。妻は私が『わが子よ』を買ってくる前か ら、この授乳の機会を使って、いろんなことを加奈に教え込んでいました。例えば妻 のひざに横になってもすぐにお乳を与えるのではなく、「拍手」と言って拍手させたり、「耳は」と言って耳を指差させたりしてからお乳をあげるのです。妻はこのやり 方で、結構いろんなことを教えることに成功していました。私は妻に音声模倣の重要性を説明し、この授乳の機会もその訓練にあてるように求 めました。つまりこれまでのようにいろんな芸をさせるのではなく、何か発声した ら、お乳をあげるようにするのです。これは効果てきめんでした。発声を強化し始めてから5日目の8月3日には、レッ スン中お菓子を見せると「ダリダリ」とか「オババ」と言うようになりました。 次は私が「ア」と言った後にだけ発声させる訓練です。これも比較的すんなり行 き、数日後には、私が「ア」と言うと、「アー」、「ダリダリ」、「オババ」などと 発声するようになりました。問題は、やはりこちらの発声をまねさせることでした。私は「こっち見て」と言っ て加奈の注意を引いてから、「ア」とか「オ」といった短い発声をして、加奈がそれ に近い発声をしたら強化するようにしました。すると数日のうちに(8/9頃)、それまで多かった「ダリダリ」とか「オババ」といった長い発声が影を潜めてきました。代 わりに「ア」「イ」「オ」と言った単音で応えてくることが多くなりました。しかしまだこちらが「ア」と言っても「イ」と言ったり「オ」と言ったりで、模倣にはなっ ていません。むしろ私の方が加奈に合わせてやり、最初はこちらが「ア」と言って も、加奈が「イ」ばかり言うようなら、こちらも「イ」と言うようにしました。そう すると見かけは模倣らしくなります。8月12日、この状況に変化が生じました。前日もちょっとそのような兆候があったん ですが、こちらが「オ」と言うと、加奈は最初の2回、「ア・オ」「ア・オ」と言っ た後、16試行連続で私の「オ」に対して「オ」と発声したのです。しばらく休憩のあ と、今度はこちらが「イ」と言いました。すると最初の1回は「オ・イ」と言いまし たが、その後連続9回、「イ」と言えました。そこで私は「オ」と「イ」をランダムに発声してみました。つまり「オ」「オ」「イ」「オ」「イ」「イ」というように、加奈にパターンを読まれないように不規則 に二つのどちらかの音を出すのです。すると加奈はなんと9回連続して正しく模倣す ることができました。これは偶然ではありえません。加奈はとうとう、私の声をまね する、ということを理解したのです。実はここに至るまでの数日間、私は早くもロバースの方法に疑念を抱くようになっ ていました。果たしてこの方法でいいんだろうか、という迷いが生じたのです。私は この数日前に、本屋で日本の行動療法の専門家が執筆した『自閉症児の行動療法』という本を買ってきました。その本ではロバースの方法は限界があるとして否定されて おり、代わりに日本独自の「フリーオペラント」という方法が紹介されていました。その方法は、ロバースのように椅子に座らせるのではなく、広々とした部屋で自由に 遊ばせ、治療者が子どもをだっこしたり、くすぐってあげたりして、子どもをいい気持ちにさせ、治療者を好きにさせます。そうした上で、子どもが何か発声したら、治 療者がそれをまねするのです。そのまね(逆エコー)が一種のほうびになって、子どもはもっと発声するようになり、やがては意味のある言葉につながる、というので す。  私はそれを読んで数日間、ロバースのこのやり方でいいのか、と真剣に悩みまし た。しかしこうして加奈が初めての音声模倣に成功した以上、迷いはなくなりまし た。ロバースの方法は少なくとも加奈にはうまく行ったのです。私にとってはそれで 十分でした。私はロバースを信じることにしました。「オ」と「イ」が区別できた後、すぐに「ア」もまねできるようになりましたが、 そのあと新しい音がなかなか生まれませんでした。私は加奈がすでに発声していた「マンマ」とか「ババ」をなんとか模倣に結びつけようと努力しました。その結果、 まず15日に「ママ」が模倣できるようになりました。17日には「マ」という単音も発 声できるようになりました。18日には「バー」と言えるようになりました。21日には 「ワ」がなんとか物になってきました。22日には「ヤ」、23日の朝には「コ」が出る ようになりました。  23日の午後、ちょっとした事件がありました。妻は加奈が「ママ」と発声できるよ うになったので、数日前から加奈を抱いて「ママは?」と聞き、加奈に「ママ」と言 わせながら、自分の胸を指差させていました。そうさせているときの妻は実にうれし そうでした。その日、一家3人で、近くの町までバスに乗って買物に行きました。妻はさっそくいつものように加奈を胸に抱き、「ママは?」と聞きました。加奈は「ママ」と言い ながらいつものように妻の胸を指差しました。それから妻は何気なく、「ややは?」と聞きました。「やや」は妻が加奈につけた あだ名です。これまで「ママ」は指差させていましたが、加奈に「やや」と言って自 分を指差させたことはありませんでした。  しかし妻が「ややは?」と聞くと、加奈は妻の胸に置いていた指を黙ってすっと自 分の胸に持ってくるではありませんか。私と妻はびっくりして顔を見合わせました。 妻はもう一度試してみました。「ママは?」と聞いて、妻の胸を指差させてから、も う一度「ややは?」と聞きます。すると加奈はまた黙ったまま、指を自分の胸の方に 持っていきます。 加奈は「やや」が自分の名前だとわかっているんでしょうか。もう「自分」という 概念ができたんでしょうか。それはちょっと話がうますぎる、と私は思いました。で もとにかく、私も妻もこの小さな出来事に興奮しました。妻は帰りのバスの中でも、家に帰ってからも、「ママは?」「ややは?」と聞き続 けました。聞き過ぎたせいか、加奈は少し混乱してきて、自分を差しながら「ママ」と言ったりし始めました。やはりまだ概念がそんなにしっかりとしていないのでしょ う。しかし妻がしつこく聞いているうちに、加奈はもう一つ、思いがけない反応をしま した。夜、お風呂に入れた後、身体を吹きながらもう一度妻が「ややは?」と聞いた とき、加奈は自分を指差しながら、突然、「やや」と小さな声で言ったのです。「やや」という単語は、まだ一度も模倣させたことがありませんでした。前日の レッスンで、やっと「や」という単音が出るようになったばかりです。しかし加奈は その身につけたばかりのレパートリーを使って、自発的に妻の言葉を模倣したのでし た。その夜はもう一つ事件がありました。加奈がお風呂から上がった後、妻は居間の畳 の床に簡単なパズルをおいて、加奈にピースを一枚ずつ渡してはめさせようとしまし た。しかし数日前に始めたばかりで、加奈はまだどのピースをどこにはめたらいいのか、よく覚えていません。加奈が迷っていると、妻が何度も「ここ」「ここ」と言って、空いている場所を指差しました。  する突然、ピースを持っている加奈の口から「コ・コ」という言葉がこぼれでました。まるでロボットの発音のように不自然な発声でしたが、私と妻はまたびっくりし ました。次のピースを渡して妻が「ここ」と言って指差すと、加奈はまたぎこちない 声で「コ・コ」と言いながら、ピースをはめます。この日はまるで加奈の音声模倣能 力が急に目覚めたかのようでした。妻と私は何度も顔を見合わせ、幸福感に浸りました。この日、私は確信しました。 加奈は間違いなく、しゃべれるようになる、と。

8.はじめての散歩  

音声模倣の訓練と並行して、私たちは動作模倣や音声指示の訓練にも力を入れまし た。これははじめのうち、専ら妻の担当でした。妻は1日中、空いている時間に加奈 を捕まえては、居間やダイニングキッチンで加奈にいろんな「芸」を仕込みました。  例えば妻は「◯◯加奈ちゃん」(◯◯は名字)と呼んで、加奈に手を上げさせようとしました。加奈をソファに座らせて、手を上げさせようとするのですが、最初はいくらやっても、自分から手を持ち上げようとはしませんでした。妻が手を持ち上げると抵抗はしないのですが、妻が手を離すと、すぐに加奈の手はバタッと落ちてしまいます。全然力が入っていないのです。  ところが何日かそれを続けたある日、妻は試しに加奈の手を握らず、ただ加奈の手の甲に自分の手を置いて、自分の手だけをすっと持ち上げてみました。するとそれに釣られるかのように、加奈の手がすっと上がるではありませんか。加奈は何度も手を上げさせられているうちに、いつのまにかその動きを覚えてしまったんだと思います。  8月4日には「◯◯加奈ちゃん」と呼ばれると、私たちが手を触らなくても自分から手を上げられるようになりました。しかしまだ手はまっすぐ上がらず、自分の頭の後に手が行きます。まっすぐ上がるようになったのは、さらに数日後のことです。  「こんにちは」を教えたときも同じようなことを経験しました。妻は加奈を自分の膝に横向きにすわらせて、「こんにちは」と言っては加奈のお腹と背中を持って、加奈にお辞儀をさせようとしました。しかし最初の二日間、加奈はただそうされるがままで、いくらやっても自分から身体を曲げようとはしませんでした。  三日目の8月10日。この日は朝から新しく試みていた別の課題(次の節で述べる、 物の名前付けの課題)がうまくいかず、妻も私も落ち込んでいました。朝のレッスンの時、加奈がぼんやりと横を向いているその横顔を眺めていると、私の頭の中に「白痴」という言葉が頭に浮かびました。ああ、この子は脳に障害を持っているんだ、ということが急に実感として湧いてきました。  午後、加奈が昼寝をしようとしないので、仕方なく神戸のハーバーランドに連れて行きました。行きの電車でも帰りの電車でも、加奈は私の頭によじ登ろうとしたり、ときおり奇声を上げたりして、むしろ病状がひどくなっているように思えました。この調子では、これから外出も難しくなっていくだろう、と暗然とした気持ちになりました。  ところがその夜、私と加奈がお風呂に入っていたときのことです。加奈はこれまでは見向きもしなかった洗面台の上にある私の髭剃用の剃刀に手を伸ばすと、それを手に取って自分の頭にあてました。  あぶないのですぐに取り上げましたが、私には加奈が何をしようとしたのかがよくわかりました。私はいつもこの剃刀を使って、加奈の伸びすぎた前髪を少しずつ切ってやっていたのです。加奈はそのまねをしているにちがいありません。ああ、この子はやっぱりかしこくなってる。私は急にうれしくなりました。  お風呂から上がると、今度は妻がいつものように加奈を自分のひざに座らせて、「こんにちは」と言って身体を前に屈ませようとしました。すると何回目だったでしょうか。妻がまだ加奈の身体に手を触れてないのに、加奈の上半身がかすかに前に 動くではありませんか。妻は驚いて私を見ました。妻はもう一度「こんにちは」と 言ってみました。するとまたかすかですが、加奈の腰から上が前にすっと動きます。 見間違えではありません。加奈は自分からお辞儀をしているのです。  妻も私も大喜びして、昼間の絶望はどこかにふっ飛んでしまいました。数日後、加奈はすっかり上手にお辞儀できるようになりました。  この後も、加奈に新しい動作を教えるときは、しばしば同じようなことを経験しました。最初は全く無反応なのですが、こちらが手を取って何度もその動作をくりかえさせてやると、翌日や翌々日には、できるようになっているのです。まるで昼間何度もさせられた動作に脳が刺激されて、加奈が寝ているうちに、脳の中にそれを行なうための神経の新たな道筋が出来上がっていくかのようでした。  加奈が初めてお辞儀をした二日後(8/12) 、今度は歩く訓練に取り組むことにしました。前にも言ったように、加奈はその頃、地面に降ろして歩かせようとするとひどいパニックを起こしていました。ギャアーと大声を上げながら、必死に私の足にすがりついてくるんです。仕方なく、どこに行くときも目的地に着くまでは抱いていくか、ベビーカーに乗せていました。  ところがキャサリン・モーリスの『わが子よ、声を聞かせて』を読むと、モーリスさんはアンマリーをむりやり引きずって歩かせる練習をして、そのうち泣かずに歩けるようになった、と書いてありました。私もやってみよう、と思いながら、自分にやり通せるだけの意志があるだろうか、と不安で、この日まで先延ばしにしていました。  しかしぐずぐずしていると私の夏休みも終わってしまいます。この日、意を決して夕方、加奈を散歩に連れ出すことにしました。妻も一緒です。  コースは自宅から歩いて10分ほどの距離にある小学校沿いの小さな遊歩道を折り返し地点とし、そこから水源地の土手に沿った人気の少ない道を通って帰ってくる、というルートを選びました。まず初日は遊歩道までは抱っこしていき、そこで降ろして水源地沿いの道を、最初は100 メートルでいいから歩かせることにしました。ここなら加奈がいくら泣き叫んでも、人目を気にすることはありません。  遊歩道には、加奈のお気にいりの噴水があります。そこでしばらく遊ばせた後、 「歩くよ」と言って、私が先に立って歩きだしました。  私はいつものように加奈がギャアーと大音響で叫びだすのを覚悟していました。ところが意外とそれほどでもありません。確かに泣いていますが、以前に見られたような、狂ったような行動ではありませんでした。以前なら引きずって歩かなければなりませんでしたが、今日は泣きながらも、ちゃんと自分の足で歩いて、私のあとをついてきます。  私は泣いている加奈に声をかけないように気をつけました。行動療法では、かんしゃくは完全に無視して、やさしい声かけなど、その行動を強化するようなものは一切与えないように教えているからです。  私は水源地沿いの歩道を、加奈から5メートルほど先に立ってゆっくり歩いていきました。加奈は泣きながらついてきます。そのうち加奈の泣き声が弱くなって、とうとう泣き止んでしまいました。私はここぞと励ますような声をかけました。これも行動療法の教えで、こどもが適切な行動をしたときを選んで、強化しないといけないのです。加奈はしばらく機嫌よく歩いていましたが、また思い出したように泣きだしました。  結局、その日はもう泣き止むことはなく、途中から私が抱っこして帰りましたが、私は、これはいけそうだ、と自信を持ちました。  翌日もその翌日も、私は夕方になると、加奈を散歩に連れていきました。三日目、噴水のところから歩き始めると、最初は泣きましたが、すぐに泣き止んで歩き始めました。試しに加奈の側に行って手をつないでみると、すがりついてくるようなこともありませんでした。途中、時々泣きだしましたが、すぐに泣き止んで、時折笑顔を見せました。私や妻と手をつないで歩くのを、楽しんでいるように見えました。  私と妻の両方と手をつないで、加奈が歩いています。加奈の手のぬくもりが私に伝わってきます。それは夢のようでした。これまで加奈を連れてデパートに行ったり、水族館に連れていったりしましたが、こんなに心が安らいだことは一度もありません。私はこの日初めて、娘と手をつないで散歩するという幸せを味わうことができたのです。  5日目、この日は初めて、家を出るときから抱っこせず、遊歩道の噴水までの10分程度の道程を歩いていき、帰りも歩いて帰ってきました。加奈は最初のうち泣いていましたが、途中からすっかり機嫌がよくなりました。  私たちはただ散歩するだけでは満足できなくなり、途中道端で出会ういろんな物に、加奈の関心を引こうとしました。前日は、加奈に道端の花や飛んでいる虫を指差しても、ぼおっとしていて指差す方向をみようとしなかったのですが、この日は自分から花を触ったり、私たちの顔を何度も見上げたりしました。その翌日は、散歩中すれ違った犬に初めて興味を示し、手をのばして触ろうとしました。また日傘を差して歩いている2人の婦人に急に手を延ばして近寄っていったりしました。自分の足で歩くようになって、初めて周囲のいろんな物が加奈の目に入ってきたようでした。  私は結局一週間、毎日加奈と散歩に出掛けました。7日目、加奈はもう全く泣かなくなりました。予想以上の大成功でした。それにしても、もし保健センターのT先生の言うとおりに10年間待っていたら、どうなっていたことでしょう。確かに加奈もいつかは歩きだしたことでしょう。しかしその間に、私たちはますます加奈のかんしゃくの奴隷になり、加奈は道端の花や散歩中の犬に触って学習する貴重な機会を、何年も奪われたままだったのではないでしょうか。  この歩行訓練を通じて実感したのは、加奈の(そして自閉症児の)パニックやこだわりは案外底が浅い、ということです。かんしゃくを起こしているときは、この子はほおっておくと心臓が止まるんじゃないだろうか、と思って恐くなるほどです。しかし勇気を出して完全に無視してやり通すと、案外途中からケロッと治まるのです。私はこの後も、何度か同じようなことを経験しました。そしてその度に、行動療法の正しさを実感したのです。

9.「ジュースちょうだい」  

治療を始めてから一ヵ月の間に、加奈はいろんな面で目覚ましい進歩を遂げまし た。 動作模倣もその一つです。  加奈はもともと私たちの動作をまねするということがありませんでした。しかし妻 が積極的に働きかけているうちに、眠っていた能力が徐々に目覚め始めたようでし た。  8月12日のことです。妻は「げんこつ山のたぬきさん」の手遊び歌を加奈に教えよ うとしていました。初めての手遊び歌として数日前に「結んで開いて」ができるよう になったので、次はもっと難しいこの歌に挑戦したのです。  居間に加奈を立たせて、妻が向かいあって歌を歌いながら、それに合わせて手を動 かします。加奈は数日前に「ねんね」のポーズができただけで、あとはどの動作もま だできません。しかし妻の歌と動作がうれしいらしく、興奮しながら妻を眺めていま す。「ねんねして」のところでは必ず覚えたての「ねんね」のポーズをしました。  妻は「ねんねして」の前の「おっぱい飲んで」の仕草を加奈に教えようとしていま した。何度も手を取ってその仕草をさせようとしましたが、なかなかできません。と ころが何回目かに通して歌ったときに、教えようとしていたところとは違う「だっこ して」のところで、加奈がいきなり妻のまねをして、自分の両手を前に交差させまし た。  私たちはそれを見て喝采を上げました。「だっこして」の動作はまだ教えたことが なかったんです。きっと加奈が潜在的に持っていた動作模倣の能力が作動して、加奈 にまだしたことのない動作を反射的にまねさせたのだと思います。  16日には、「おっぱい飲んで」の動作もできるようになりました。これも突然でし た。17日の朝には「おっぱい飲んでねんねして、だっこして」の部分の動作を連続し てまねした後、さらに「おんぶして」のところで、妻の動作に釣られるように、一瞬 片手を後に回しました。その時は偶然かと思いましたが、午後にもう一度試すと、今 度ははっきりと「おんぶして」で両手を後に回しました。さらにその日の夜には妻に 何度も手をとって教えてもらった結果、「げんごつ山のたぬきさん」で、こぶしを交 互に合わせる動作もできるようになりました。  一方私は、無謀にも治療開始からわずか7日目の8月4日から、物の名前を教える 訓練を始めました。  前に言ったように、ロバースの『自閉児の言語』によると、言葉を引き出すための プログラムは大きく二つの柱からなっています。一つは先に説明した音声模倣の訓 練。もう一つが受容的な物の名前付けの訓練です。  『自閉児の言語』によると、言語には大きく受容言語と表出言語の区別がありま す。受容言語というのは、相手に言われたことを理解する(例えば、「りんごは?」 と聞かれてりんごを指差せる)ということです。表出言語というのは、意味をもった 言葉を発する(例えばりんごを指差して「りんご」という)ということです。  ロバースによると、まだ言葉のない自閉症児に対して、音声模倣の訓練をする一方 で、受容的な物の名前付けの訓練をします。例えば最初はりんごをテーブルの上にお いて、大人が「りんご」と言って子どもにりんごを指差させます。上手になったら、 今度はりんごとバナナをテーブルの上において、やはり「りんご」と言って、りんご を指差させます。りんごとバナナの位置を入れ替えても、間違いなくりんごを指差さ せるようになったら、今度は「バナナ」と言ってバナナを指差させる練習を始めま す。最初はりんごを指差すでしょうが、プロンプトして、つまり手をとってやった り、正しい方を指差したりして、バナナを指差させます。「バナナ」が上手に指差せ るようになったら、もう一度りんごに戻って訓練をやり直します。最後にりんごとバ ナナをランダムに言って、子どもがそれに合わせて正確に言われた方の物を指差させ るように訓練するのです。  最初の二つの物の名前が区別できるようになったら、三つ目、四つ目の物も同じよ うにして導入していきます。これが受容的な物の名前付けの訓練です。  受容的な物の名前付けができるようになり、それと前後して音声模倣で「りんご」 や「バナナ」などの単語をおうむ返しできるようになっていたとすると、あとは表出 的な物の名前付け、つまりりんごを見て「りんご」と言えるようになるまで、あと一 歩です。 『自閉児の言語』には、この受容的な物の名前付けの訓練をいつ始めたらいいのか、 はっきり書いてありませんでした。加奈に一刻も早くことばを話してほしかった私 は、音声模倣の訓練と並行して、ただちにこの訓練を始めることにしたのです。  あとになって『ミーブック』を読むと、私のこのやり方が間違っていたことがわか ります。本当は、まず動作模倣や音声指示やマッチングをやりながら、おとなしく椅 子に座って指示に従う学習姿勢をしっかり確立しないといけないのです。そのあとで 今度は音声模倣の訓練をしっかりやります。また、それと並行して自助スキル(衣服 の着脱や食事、トイレ)の訓練に取りかかります。そして音声模倣の訓練がある程度 進んでから、始めて物の受容的な名前付けの訓練に入るのです。私はそれらの手順を 全て飛ばしてしまったのですから、後から振り返れば難航するのは目に見えていまし た。  最初の日はジュースの空缶とスプーンを使って訓練しました。まず缶だけをテーブ ルの上において、私が「かん」と言い、加奈に空缶を触らせようとしました。しかし 加奈は泣くばかりで缶を見ようともしません。翌日も同じ調子でした。  三日目、もっと生活のなかで見慣れたものがいいかと思い、ごはんと缶で試してみ ましたが、泣くばかりで全くだめでした。私はがっかりして妻に「まだ無理なようだ から後に回そう。」と言いました。  すると妻は怒りだしました。私が弱気になっている、と思ったんでしょう。加奈を 捕まえて、食事の部屋で猛然と訓練を始めました。「カン」「カン」と何度も言って 缶を選ばせます。そのうち、妻の剣幕に恐れをなしたのか、加奈はこれまで目をそら していた缶を見るようになりました。その日の夜には、「カン」というと二つの物か ら缶を選べるようになりました。私たちは喜びました。  しかしもう一つの物(その日の夜はボールでした)と缶とをランダムに言うと、ま るでだめでした。つまり加奈は、自分が何か特定の物を選ぶことを要求されている、 というとはわかったのです。だから何度か缶を取らせると、複数の物のなかから缶を選ぶことはできるようになるのですが、目の前の缶と「カン」という言葉が結びつい ている、ということはわからないのです。ですから私たちが「ボール」と言っても缶を選ぼうとします。「ちがう」と言ってボールを選ばせると、今度は何を言われても ボールばかり取るようになります。それも違うのだ、と言われると、加奈はどうしていいかわからなくなって泣きだします。いまから思えば無理もないことで、加奈には かわいそうなことをしました。  その後もいろんな物で試しましたが、どれもうまく行きませんでした。時にはラン ダムで10回連続して正解することもあって、そのときは「できた」と思って喜ぶので すが、次の時間や翌日にはまったくだめになってしまいます。私たちはその度に落ち込みました。  しかしそうするうちに、音声指示でいくつかの身体の部位が区別でき るようになりました。初めに区別できたのは耳と足で、17日のことです。20日にはさらに頭とおなかも加わりました。  そこで私は考えました。この子は自分の身のまわりの物にそれぞれ別の名前がつい ている、ということを理解していない。しかし自分の身体のいろんな場所が別の「名前」で呼ばれている、ということはわかったようだ。少なくとも「みみ」と言われれ ば耳を、「あし」と言われれば足を触ることはできるようになった。おそらく加奈にとって、自分の身体の概念が一番はっきりしているのだろう。だとしたら、普段身体 に身につけている物を、身体に身につけた状態で訓練したらどうだろうか。そうすれば、身体の名前と同じだと思って、すんなり覚えるかもしれない。 私は靴下から始めることにしました。その頃、我が家では靴下のことを「ワー ワー」と呼んでいました。  というのは妻は台湾人で、加奈に対して生まれたときから幼児中国語をよく使って いたからです(妻が日本留学中に私たちは出会いました)。私たちは加奈をバイリン ガルにするつもりでした。加奈に障害があることがわかってからは、仕方なく日本語に統一することにしましたが、それでもいくつかの単語は、加奈がもう耳に馴染んで いるかも知れない、という理由で(また私の内心では、妻からすべての中国語を取り上げるのは酷だという理由で)そのままにしてありました 。 訓練は、加奈を椅子に座らせ、片方の足に靴下をはかせた状態で「ワーワー」と 言って靴下を触らせることから始めました(21日)。プロンプトなしで3、4回、靴下を触れるようになってから、今度は靴下を脱がせて、足のすぐとなりの床に置き、 「ワーワー」と言ってみました。加奈が「ワーワー」を足のことと勘違いしていないか心配でしたが、加奈は自分の足を触らずに、その隣の靴下を触りました。加奈は自 分の足と靴下とをちゃんと区別していたのです。翌日は、初めにもう一度靴下を足にはかせた状態で「ワーワー」と言って触らせ、印象づけた後、靴下を脱がせて足の横に置き、「足」と「ワーワー」のランダムトラ イアルを行なってみました。「足」と「ワーワー」をランダムに言って、その通りに加奈が触れるかどうかを確かめるのです。その結果、連続10試行中9試行正解しまし た。まずまずの結果です。その後、他のいろんな身体の場所と「ワーワー」とが区別できることも確かめました。 次は二番目の物です。私は靴を選びました。日本語だと靴と靴下はことばが似てい るので、適当ではありません。しかし我が家では幼児中国語で、靴のことを「シェ シェ」と呼んでいました。これなら聞き分けやすい、と思ったのです。  最初は靴下の訓練のときと同じように、椅子に座らせた状態で、加奈の素足に靴を片方だけはかせて、「シェシェ」と言って靴を触らせる訓練から始めました。次いで 靴を脱がせて足の横に置き、「シェシェ」と言ったら靴を、「あし」と言ったら素足を指差す練習をしたところ、すんなりうまく行きました。それからもう一度、「ワーワー」を再訓練しました。こうした手順を何度か繰り返 して、「シェシェ」と「ワーワー」のどちらも体の部位とは区別できることを確かめた後、「ワーワー」と「シェシェ」のランダムトライアルに取り掛かりました。  これはすんなりとは行きませんでしたが、この頃には「はじめての言葉」で述べたように、自発的な音声模倣が始まっていたので、私は加奈の進歩に自信を持ってお り、焦らずに取り組むことができました。いくらか試行錯誤を繰り返した後、27日に始めて「ワーワー」と「シェシェ」のランダムトライアルに連続11試行成功しまし た。翌日からまたちょっと崩れましたが、9月1日には完全に安定しました。加奈はついに物に名前がある、ということを理解したのです。いったん最初の二つの物の名前を覚えると、それからは体に身につけるものでなくて も大丈夫になりました。私たちは加奈にどんどん新しい物の名前を教えていきました 。加奈は9月4日に「テテ(お茶)」、6日にはボール、8日には花、11日には 「ブーブー」(おもちゃの車)を覚えました。「ジュース」も教えたのですが、これは同じ飲み物の「テテ」となかなか区別できないようでした。 ところで、加奈は8月の末から、何か欲しいものがあるときに「ちょうだい」と言 えるようになっていました。例えばレッスン中に、ほうびのジュースが飲みたくなると、「ちょうだい」と言います。しかし「ジュース、ちょうだい」とはまだ言えませ んでした。 音声模倣の訓練の結果、9月の初めには「ワーワー」も「シェシェ」も「ジュー ス」も、私たちのまねをして言うことはできるようになっていました。しかしまだ靴 下を取り上げて「これ何?」と聞いても、「ワーワー」とは言えませんでした。 9月18日のことです。この頃には私の夏休みも終わり、あまり治療に時間を割けな くなったので、妻も日中、椅子に座らせてのレッスンを担当するようになっていまし た。 妻はいつも授業中に、加奈にほうびとして飲ませるジュースを用意していました。 その日、妻が加奈に課題をやらせていると、突然、加奈が「シュシュ」「シュシュ」と言い始めたそうです。妻はよく聞き取れなかったので、「何を言ってるのかなあ」 と思っていました。すると加奈が今度は「シュシュ、チョウダイ」と言ったのです。加奈はジュースが飲みたくて、始めてその物の名前を使ったのでした。しかも 「ちょうだい」を付けて。私が帰宅すると、妻は興奮しながら私に昼間の事件を教えてくれました。私はその場にいなかったことを残念に思いました。それから二日経った9月20日。帰宅すると再び妻が興奮気味に報告しました。車と 靴下を見せて、それぞれ「これ何?」と聞くと、「ブーブー」、「ワーワー」と言えるようになった、ランダムトライアルもクリアした、というのです。私は半信半疑で したが、夕食が終わった後、さっそく夜のレッスンで試してみました。加奈を椅子に座らせ、「こっち見て」と言ってブーブーを見せると、あっさり「ブーブー」という ではありませんか。妻が昼間、よほど訓練したのでしょう。何度か言わせた後、今度 は靴下を見せると、最初の2回は「ブーブー」と言いました。しかし私が「ちがう」 というと今度は「ワーワー」と言い出しました。何度か言わせてから、「ブー ブー」と「ワーワー」のランダムトライアルに入りました。最初の2回は間違えまし たが、あとの7回は連続正解しました。どうやら妻の言うことはうそではないようです。 さらにその夜、2時間目のレッスンで(その頃、加奈は寝るのが遅かったので、私 は45分のレッスンを2回やっていました)、妻がまだ言わせていないボールを見せたところ、いきなり「ボードゥ」というではありませんか。間違いありません。加奈は 物の名前を言えるようになったのです。加奈は言葉を身につけたのです。 治療を始めてから、もうすぐ2ヵ月が経とうとしていました。加奈はこの2ヵ月で 長足の進歩を遂げました。笛やラッパやシャボン玉も吹けるようになったし、フォー クとスプーンを自分で使えるようにもなりました。ボールを蹴ったり、投げることも できるようになりました。哺乳ビンをねじってあけることもできるようになりました。ブランコに一人で乗れるようにもなりました(まだすわるだけですが)。みんな 治療を始める前は、いつできるようになるのか、まったく見通しの立たないことばかりでした。 いま、加奈は言葉を話せるようになりました。しかし私たちはもうそれだけでは満 足できませんでした。一つの壁を乗り越えると、すぐに次の壁が見えてきます。私たちはそれを乗り越えるために、またすぐに走り始めました。苦しい戦いは、実際には まだ始まったばかりだったのです。

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