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代表からのメッセージ

はじめまして。つみきの会代表の藤坂龍司と申します。

つみきの会のことをご理解いただくために、私がABAと出会い、このつみきの会を作るまでに至ったいきさつをお話しします。

娘の誕生

私には、自閉症の娘がいます。名前は「綾」です。

1995年に綾が生まれるまで、私は障害児療育とは無縁の人間でした。当時、私は短大で憲法や政治学を教える講師をしていました。

綾は私たち夫婦にとって遅く授かった初めての子どもでした。
私たちは初めての子育てに戸惑いながらも、幸せいっぱいでした。

しかし今から思えば、綾は、生まれたときから普通の子どもとは違っていました。

まず異常に眠りが浅く、やっと寝入ったかと思うと、ものの15分もしないうちに火がついたように泣きだすのでした。妻は極度の睡眠不足に悩まされました。

それにいつもむっつりしていて、めったに笑いません。目も合いにくく、顔を正面に持っていかないと、私たちを見てくれませんでした。

それでも体の発育だけは順調で、1才を過ぎると歩き始めました。そうなると、次に親が期待するのは「ことば」です。私たちはいつ言葉が出てくるだろうか、とわくわくしながら待ちました。

しかし綾は「ダリダリ」とか「オバババ」といった無意味な発声をするだけで、いつまで経っても意味のある言葉を発してはくれませんでした。

私たちは、どんなにか、娘の言葉を待ちわびたことでしょう。しかし言葉が全くないまま、1歳半が過ぎ、2歳の誕生日が近づくにつれ、私たちの心の中で、不安が抑えようもなく大きくなってきました。
それは「この子には何かの障害があるのではないか」という不安です。

それは当時の私たちにとって死刑の宣告に等しいことでした。ですから不安に思いながらも誰にも相談することなく、ただただ、言葉の兆しを待ち続けたのです。

しかしついに一言も言葉がでないまま、2歳の誕生日を迎えたとき、私たちは綾に、何らかの障害があることを覚悟せざるをえませんでした。私は何か情報を探そうと本屋に行って、分厚い家庭医学の本を手に取り、「発達の遅れ」の項目を調べました。綾に当てはまることが多く、間違いないと思いました。家に帰って、そのことを妻に告げたとき、妻はもう半ば覚悟していたのでしょう、リビングの床に座り込み、私の腕の中で、大声で泣き始めました。

ABAとの出会い

私たちは数日、悲嘆にくれた後、何とか立ち直って、行動を開始しました。

まず地元の保健センターに連絡して、専門の病院を紹介してもらい、診断を受けることにしました。そこで告げられた診断名は「自閉傾向の疑い」というものでした。私は知的障害だとばかり思っていたので、何だか軽い印象を受けたのを覚えています。実際には自閉症はとても大変な障害だったのですが、当時はそれも知りませんでした。

それと同時に、その保健センターが主催する親子教室に通うことになりました。その教室で臨床心理士の先生に言われたのは「何かを教えようとしてはいけない。とにかく一日何度でもほめて、抱きしめてあげて」ということでした。私は「そうか」と思い、家に帰って綾をほめようとしたのですが、ほめようにも、綾は何もいいことをしてくれないのでした。

そんなとき、ふと本屋で手に取った一冊の本が、私たちの運命を変えることになりました。それはキャサリン・モーリス『わが子よ、声を聞かせて-自閉症と闘った母と子-』(NHK出版)という本です。

この本の著者、モーリスさんはニューヨークに住む母親です。彼女の娘アン・マリーも、ちょうど2歳の時に「自閉症」と診断されました。モーリスさんは娘をよくするための情報を一生懸命に集め、ついに耳よりの情報をキャッチしました。ロサンジェルスで、ロバース博士と言う人が、ABA(行動療法)という方法で、19人の自閉症幼児を治療したところ、そのうち9人(47%)が知的に正常になり、普通学級に通えるようになった、というのです。

モーリスさんは、さっそく大学院でABAを学ぶ学生をセラピストとして雇い、アン・マリーの治療を始めました。アン・マリーはわずか数カ月のうちに劇的に回復していき、ことばも社会性も豊かになって、ついに医師によって「もはや自閉症とは言えない」と診断されるまでになりました。

私はこの本を読んで興奮しました。「こんなにいい方法があるのなら、わたしたちもやってみよう。もしかしたら綾を治してやれるかもしれない」と思ったのです。妻にも本を読んでもらうと、幸い、熱心に賛成してくれました。

セラピーの開始

私は勤め先の短大がちょうど夏休みに入ったばかりで、時間の余裕がありました。そこでセラピーは私が担当することにしました。

問題はマニュアルです。『わが子よ』には、ロバース博士の『ザ・ミーブック』という、いいマニュアルがある、と書いてありました。そこで大学図書館を探したのですが、日本語版がないどころか、原著すら、どこの図書館にもないようでした。いまと違って、洋書の取り寄せが3か月かかった時代です。私はがっかりしましたが、幸い、母校の大学図書館に、同じロバース博士の、言語訓練に絞った古いマニュアル『自閉児の言語』の翻訳が所蔵されているのを見つけました。私はさっそくそれを全文コピーして、帰りの電車でむさぼるように読み始めました。

そこには、無発語の自閉症児に、どうやってことばを教えるか、が具体的に書かれていました。その方法は簡単ではありませんが、スモールステップで、理にかなっていました。「これなら、自分にもできそうだ。これで綾を救ってやれる!」そう思うと、電車の中で思わず涙があふれてきました。

マニュアルが手に入ったので、いよいよ実行です。私たちは家の一部屋をセラピー専用の部屋と決め、そこにベビー椅子や教材グッズを持ち込みました。強化子として、綾の好きな揚げせんべいやジュースも用意しました。

私は綾を抱きあげ、ベビー椅子に座らせました。綾は、いつも通り、気が向いたらいつでも椅子から抱き上げてもらえると思っていたのでしょう、素直に椅子に収まりました。

しかし私は、もうこれまでのように、綾が好きな時に椅子から立たせるつもりはありませんでした。ロバース博士のABAセラピーでは、はじめのうち大人が絶対的な主導権を握ります。決して長く椅子に座らせ続けることはありませんが(だいたい5分に1度は立たせます)、いつ立つかは大人が決めるのです。私はもう昨日までの甘いパパではありません。きびしい教師にならなければいけないのです。

綾は椅子に座ったまま、おもちゃでしばらく遊ぶと、飽きて立ち上がろうとしました。そのとき私は綾の膝を押さえて、立たせないようにしました。綾は私の思わぬ仕打ちに驚いて、火がついたように泣き始めました。そして「2歳の子どもにこんな力があるのか」と思うほど強い力で立ち上がろうとしました。私も負けじと、ひざを押さえ続けました。いまとなっては、いささか乱暴なやり方だったと思うのですが、とにかくこれがわが家の「戦い」の始まりでした。

音声模倣を教える

それから毎日、私は1回45分のセラピーを1日3回続けました。最初のうちよく泣いていた綾も、一週間ほどすると慣れてきたのか、ほとんど泣かなくなってきました。「パパの言うことを聞いていれば、お菓子がもらえるし、早めに立たせてもらえる」とわかったのかもしれません。

ロバース博士のABA早期集中療育では、最初にマッチングや動作模倣、音声指示といった初期課題をじっくり教え、学習の基礎ができてから音声模倣に取り組みます。しかし私の手元にはまだロバース法の全体的なテキストはなく、言語訓練に限定した『自閉児の言語』しかありませんでした。そこで私は基礎訓練を飛ばして、いきなり音声模倣の訓練を始めてしまったのです。

音声模倣の詳しい教え方は省略しますが、最初は子どものすべての発声を強化することから始めます。私は綾と向かい合い、綾が何か発声するたびに「黄金揚げ」のかけらを口にほおり込みました。

次の段階は、大人が何か発声して、その直後に子どもが何か発声すれば、音が似ていなくても強化します。私が「あ」と言いながら、お菓子を顔の横に見せると、綾は「何か言えば、パパがお菓子をくれるんだな」とわかったらしく、盛んに発声するようになりました。ただし、まだ似た音ではありません。

次はいよいよ、大人の発声に似た発声だけを強化するのですが、私はここで独自の工夫を加えてみました。綾が何か発声したら、こちらもそれと同じ音を発声して聞かせるのです。そうすれば、同じ音を合わせる楽しさを感じてくれて、やがてこちらの音に合わせて来るのではないか、と考えたのです。

綾が「ア」というと、私も「ア」と言います。綾が「オ」というと、私も「オ」と言います。綾は時々、言う音を変えます。するとこちらも後を追います。しかし時々こちらが先に音を変えても、綾はそれについて来ようとはしませんでした。

成果が出ないまま、3日が経ちました。私は果たしてこの方法でうまく行くのか、自信がなくなってきました。

しかし音声模倣訓練を始めて4日目のこと。変化が現れました。綾が言う音を変える前に私が音を変えると、綾がそれについてくるようになったのです。私が「イ」から「オ」に変えると、綾も「オ」に変えます。私がまた「イ」に戻すと、綾も「イ」に戻します。綾はついに私の声をまねし始めたのです!

音声模倣の始まりでした。私は大きな喜びに包まれました。それとともに、いままでABAに対して抱いていた不安感も払しょくされました。「この方法を信じてやっていこう」と思えたのです。

ことばが出てきた!

その後、綾が模倣できる音は順調に増えていきました。やがて出せる音をつなげて、簡単な単語も模倣できるようになってきました。

しかし綾はまだ物に名前がある、ということを理解していませんでした。例えば缶とボールを床に並べておいて、「缶、取ってきて」と言ってもボールを取ってきたりします。当然、缶を見せて「これ何?」と聞いても、「カン」とは言えません。一か月間、いろんな物で試してみたけれど、だめでした。

ただ、それと並行して教えていた「身振りの音声指示」という課題では、綾は順調に進歩していました。私が「あたま」と言うと自分のあたまにさわるし、「おなか」と言うとおなかにさわります。

私は「体の場所が分かるのなら、体に身につける物の名前なら分かるのかも知れない」と思いました。靴や帽子といったものです。

私は靴下から教えてみることにしました。申し遅れましたが、私の妻は台湾人なので、この当時、家では中国語の赤ちゃん言葉をよく使っていました。靴下のことは「ワーワー」と言います。私は綾を椅子に座らせ、片足に靴下をはかせて、「ワーワー」とこちらが言うたびに、靴下をさわらせるようにしました。

それができたら、「ワーワー」と「あたま」「おなか」などすでに分かっている体の名前をランダムにまぜて言いました。すると、これは正確に区別できるようになりました。

次に、靴下を脱がせて、はだしの足の横に置き、「ワーワー」と言ったら靴下を、「あし」と言ったら足をさらせるようにしました。するとどうでしょう。私が「ワーワー」と「あし」をランダムにまぜて言っても、綾は間違えることなく、正しい方をさわれるようになりました。さらに私が靴下をゆっくりと机の上に移動させても、「あし」と「ワーワー」を正確に区別できるようになりました。綾は初めて、自分の体の外にある物の名前を区別したのです。

これをきっかけにこの課題も順調に進み始め、しばらくすると「ブーブー」(車)や「ジュース」など、身につける物以外の物の名前も覚えてくれるようになりました。しかも、名前を言われてそれを選ぶだけでなく、自分でも「ジュース」「抱っこ」「あけて」など、要求のことばを使うようになってきました。綾はようやく、私たち親の念願であった、ことばを話し始めたのです! ABAセラピーを始めて、一か月半が経った頃でした。

その後の綾の成長

その後、長かった短大の夏休みが終わり、私は職場復帰しました。私のセラピー時間は減ってしまいましたが、その分、妻がセラピーに加わって、時間を補うことにしました(そういえば、保健センターの母子教室は、自宅でABAを始めてからすぐ、やめてしまいました。心理士の先生の言っていることがABAと真逆だったからです。それっきり綾はどこの療育にも通っていません)。

綾はその後も進歩を続けていきました。物の名前に続いて、色や形も覚えたし、数も数えられるようになりました。「これ何?」とか「何色?」などの簡単な質問を区別し、それに答えられるようにもなりました。

ことばだけでなく、身辺自立もABAで教えました。特にトイレトレーニングは大変でしたが、ロバース博士の本に書かれていた方法で実施したら、一週間でオムツ外しに成功しました。このときも、ABAの威力に改めて感銘を受けました。

ただ、課題が進むにつれて、どうやっても教えられそうにない課題も出てきました。特に「人と感情を共有する」「人の感情を理解する」ということが、綾には苦手なようでした。だから人とうまく関わって遊ぶことはできません。また難しい概念の理解、例えば「どうして?」と聞かれて、物事の理由を言う課題も、綾には難しいようでした。

つみきの会の設立

2000年の春を迎え、綾は幼稚園に入ることになりました。綾は依然として障害が残っていたので、妻が幼稚園に付添うことにしました。それとともに、家庭でのセラピーの時間は大幅に少なくなりました。

私はABAセラピーを始めたときから、「この方法を他の親御さんにも広めたい」と思っていました。こんなに素晴らしい方法なのに、周囲の人は誰も知らないようだったからです。

綾の入園が近づいたとき、私は「行動に移すならこれが最後のチャンスだ」と思いました。これ以上ぐずぐずしていたら、私の中でABAは過去のものになり、行動に踏み切る勇気は二度と出なくなると考えたのです。

そこで私は勇気をふるって、一歩を踏み出すことにしました。3月の春休みに「行動療法を広める親と教師の会」という架空の団体名をでっちあげて近くの公共施設を借り、ABAについて説明するセミナーを開くことにしたのです。

場所を借りたら、次は宣伝です。私は自分たちがかつて通っていた、地元の保健センターの親子教室が終わる時間を見計らい、センターの建物の外で待っていて、それらしき親子連れが出てくるたびに、セミナーのチラシを手渡しました。とっても恥ずかしくて、勇気が要りました。10人くらいの人が受け取ってくれたでしょうか。それが限界でした。あとは当日、人が来てくれることを祈るしかありません。

セミナー当日、うれしいことに人づてに話を聞いて、20人ほどの人が集まってくれました。私は一生懸命、ABAのこと、ロバース博士の素晴らしい成果のこと、自分の娘の進歩のことをお話ししました。皆さん熱心に聞いて下さいました。私が、ABAセラピーをやりたいと思う人には、資料をお送りします、とお約束すると、10人以上の人が、「送ってほしい」と言って下さいました。

その年の6月、私はその人たちに呼び掛けて、もう一度、会合を企画しました。今度は架空ではなく、本当に「行動療法を広める親と教師の会」(のちの「つみきの会」)を立ち上げるためです。

この時の会合にも20人以上の人が参加して下さり、会の発足が決まりました。このとき、会の愛称を「つみきの会」としたのですが、これがいつの間にか会の正式名称になってしまいました。

つみきの会の発展

当初、つみきの会は私の地元、明石、神戸を中心としたローカルな会のつもりでしたが、パソコンが得意な一人の会員さんが、会のHPを作って下さったところ、そのHPを見て、全国から毎年、100人以上の入会申し込みが殺到するようになりました。それに合わせて、大阪、名古屋、東京、福岡、仙台、札幌、と、全国につみきの会の支部が立ち上がっていきました。私は短大の仕事をつづけながら、週末のたびに、各地を飛び回って、セラピーデモをしたり、ABAのお話をするようになりました。

私は、いつの間にか本業の短大講師よりも、このつみきの会の仕事の方がおもしろくなってきました。本業の憲法学の世界では、同業者がたくさんいて、私一人がいなくなっても、誰も困りはしません。しかし、この自閉症早期療育の世界では、援助を必要としている親御さんと子どもたちがたくさんいました。この世界なら、もっとたくさんの人の役に立つことができる、と感じられたのです。

そこで私は思いきって短大をやめ、つみきの会の仕事に専念することにしました。そのための準備として、2003年に、兵庫教育大学の大学院に社会人入学し、当時在職されていたABAの著名な研究者である井上雅彦先生(現鳥取大学教授)のゼミに所属して、2年間、行動分析学を含む臨床心理学全般を勉強しました。そして2005年3月の大学院卒業を期に、長年勤めた短大に辞表を出したのです。それからは、多くの人に支えられ、つみきの会と共に歩んできました。

綾のその後

綾はその後、引き続き親の付添い付きで、小学校普通学級に入学しました。親が付き添うことについては、学校の特別の許可をもらいました。綾は社会性は乏しいものの、学業では意外なほど能力を発揮し、特に算数は小学6年生の内容までついていくことができました。中学も引き続き、主に母親が付き添って普通学級に進みました。

ただ、知的な遅れは残ったので、このまま普通高校に進んでも、一般企業への就職は無理だと思われました。そこで高校は支援学校に通うことにしました。支援学校卒業後は、地元の通所施設に入りました。いまはそこでケーキ班に所属し、毎日クッキーを焼いています。時折奇妙な行動はあるものの、職員さんの指示に従えるし、材料の数を数えたり、計量したりすることも得意なので、結構重宝されています。小さいときにABAに出会えたからこそ、いまの落ち着いた生活があると考えています。

親御さんへのメッセージ

私の子どもは、残念ながらアン・マリーのように、自閉症から脱却することはできませんでした。しかし2才の時からABAでいろんなことを教えた結果、今ではいろんなことができるようになっています。自分の要求をことばで伝えられるし(「土曜日はハーバーランドに行く」)、こちらの言っていることもわかります(「土曜日はパパはお仕事だからね。ママと行ってね」)。トイレは自分で行けるし、横断歩道も一人で渡れます。漢字も含めて、読み書きができます。ピアノが得意で、年に一度、小さな発表会で、練習した曲を披露します。そんな綾は私たちの誇りです。

私がABAに出会ったころとは違って、いまはABA療育を謳う事業所も増えてきました。しかし自閉症は、週に1,2回、T時間程度の療育を受けたくらいでよくなるような、そんな生易しい障害ではありません。その子と身近に暮らす人が、毎日休みなく、ABAに基づいた働きかけをしてこそ、目に見えた改善が得られます。

ABAは決して楽な方法ではありません。しかし効果的な教え方を親が身につけることで、ただ成長を待つだけのもどかしさからは解放されます。困難を乗り越え、新しいことを共に学んでいく喜びを、わが子と分かち合えるのです。

皆さんもぜひ私たちの仲間に加わってABAホームセラピーにチャレンジしてみて下さい。

娘と(2009年4月)


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